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Last updated 2019-3-20 Since 2019-3-20

「芸術に国境はない」(Art has no borders)は本当か?
cf.ヴェネツィア・ビエンナーレ(Biennale di Venezia, 英語: Venice Biennale / Venice Biennial) 国どうしが賞を競いあう「美術のオリンピック」。隔年開催。
cf.BESETOライン、BESETO美術祭、BeSeTo演劇祭、……
cf.ドイツのオーバーアマガウ村の「オーバーアマガウ・キリスト受難劇」に対するユダヤ系団体の抗議
 関連記事 [한ㆍ일, 외교전 이어 문화전쟁…엑스포ㆍ비엔날레 국가관 경쟁, 문화유산등재 정면 충돌](韓国語、2015.5.15閲覧)

“Music has no borders.”(音楽に国境はない)
塚田健一『世界は音に満ちている 音楽人類学の冒険』新書舘、2001、pp58-59より引用
 問題となったのは、ぼくが書いた次のようなくだりだった。「音楽と政治的権力」という見出しのもとに、音楽がさまざまな政治的しがらみのなかで創造されているということを指摘したあとで、ある洋書からこんな事例を引いたのである。
 それは、カトリック教徒とプロテスタント教徒のあいだで紛争の続く北アイルランドでの出来事。ある日、ゲール・スポーツ・クラブでアイルランドの伝統音楽を演奏する集いが開かれた。その集いではいろいろな楽器が演奏されたけれども、ギターはアイルランドの楽器ではないという理由で演奏からはずされた。ギターはむしろイギリス文化と関わりの深い楽器だ。ところが、そこへギター奏者が演奏に加わろうとやってきた。かれはほかの演奏家から立ち去るように言われたが、なかなか出ていこうとしない。最後にとうとうあきらめてかれはその場を去るが、すでに遅し。後にかれにたいへんなことが降りかかる。翌日、このギター奏者は仮面をつけた何者かに襲われ、斧で左手を切断されたのだった。
(中略)
 ところが、出版社はこの部分が気に入らなかったとみえる。心配したようなのである。何を心配したかといえば、この話が誇張のない本当の話なのか、と。(以下、略)
↑拓植 元一/塚田 健一【編】『はじめての世界音楽―諸民族の伝統音楽からポップスまで』(音楽之友社、1999)、序章、6.音楽と政治的権力

One Piece censoring comparison
[https://youtu.be/aFpYrEkEiNY]
cf.文化財返還問題(Art repatriation,문화재 반환)、海外におけるアニメ規制、etc

加藤徹が読売新聞に寄稿した書評
読売新聞 2019/05/26 掲載
『日本で生まれた中国国歌』…久保亨著 岩波書店
重い時代映す行進曲 評・加藤 徹 中国文化学者 明治大教授

 国の国歌「義勇軍行進曲」のメロディーは明るく、歌詞は激しい。 「起(た)て! 奴隷になりたくない人々よ!/われらの血肉で、われらの新たな長城を築こう!」云々(うんぬん)。 このマーチはもともと1935年の中国映画「風雲児女」(嵐の中の若者たち)の挿入歌だった。
 この歌は日本で生まれた。作曲者の聶耳(じょうじ)は、年来の夢であった日本での留学生活を始め、東京で楽譜を完成させた後、湘南の海で溺れ23歳で死んだ。 作詞者の田漢(でんかん)も、「風雲児女」の映画監督・許幸之(きょこうし)も、 文化統制の責任者としてこの左翼的映画の制作を許可した国民党政権の邵元冲(しょうげんちゅう)も、長い日本留学経験をもつ。
 日本に抵抗する3人の若者を主人公とする映画「風雲児女」は、話の筋に無理があり、観客に不評で、興行的には失敗した。が、挿入歌はラジオで広まった。37年に日中全面戦争が勃発するといっそう民衆に浸透した。中華人民共和国では国歌として採用された。
 20世紀の戦間期は、重い。戦争を回避するチャンスはあったのに、それを生かせなかった。 本書は、その重い時代を、日中双方の視点から浮き彫りにする。聶耳と邵元冲、邵の妻で女子教育や女性運動で活躍した張黙君の3人にスポットをあてる。 日本留学中に社会主義思想に触れた若き日の周恩来、歌人の柳原白蓮(びゃくれん)の夫で、父・宮崎滔天(とうてん)と同じく中国の政治家と親交をもった宮崎龍介、 謎の死をとげた駐華公使の佐分利貞男、邵元冲を信任した蒋介石、邵の死の原因となった西安事件を起こした張学良、 日本の中国理解を批判した東大教授の矢内原忠雄など様々な人物も登場する。
 複雑な生い立ちをもつ「義勇軍行進曲」の背後には、大きな世界が広がり、一つの時代が凝縮されている。 当時を生きた人々が日本や中国、世界に対して抱いた想(おも)いは、一様ではなかった。本書は、当時の人々の想いを現代の私たちへとつなぐ渾身(こんしん)の歴史叙述である。

◇くぼ・とおる=1953年生まれ。信州大特任教授。専門は中国近現代史。著書に『戦間期中国<自立への模索>』。
読売新聞 2019/06/02 掲載
『亡命者たちの上海楽壇』…井口淳子著 音楽之友社 2600円
忘れられた芸術空間  評・加藤 徹(中国文化学者 明治大教授)

 「もう東京には芸術はありませんよ。文化もありません」「上海には、いや、上海にこそ芸術があるんですよ。白人も東洋人も、ここでは坩堝(るつぼ)の中のように煮えたって、溶け合って、新しい何かを創りだしつつあるんです」
 第2次大戦末期の上海を舞台にした武田泰淳の小説『上海の蛍』の一節だ。
 1840年のアヘン戦争以降、列強は中国から土地を租借し、中国の主権が及ばない「租界」を造った。特異な都市空間である上海租界は、大量の亡命者や避難民を磁石のように吸い寄せた。ロシア革命を逃れてきた白系ロシア人や、ナチスの迫害を逃れてきたユダヤ人も、大量に流れ込んだ。1920年代から40年代にかけて、一級の亡命芸術家を含む「上海楽壇」は、オーケストラ、室内楽、オペラ、バレエのそれぞれのジャンルで、「同時代」を意識した意欲的な上演活動も行った。古典作品だけでなく、ショスタコーヴィチやストラヴィンスキーの新作なども、いち早く上演した。
 戦時下でも、指揮者の朝比奈隆や、バレエダンサーの小牧正英、音楽マネージャーの原善一郎など、多くの日本人が上海楽壇で活動を続け、スキルを磨いた。そのおかげで戦後、日本の音楽はいち早く復興できた。上海交響楽団や集団創作バレエ『白毛女』など新中国の音楽シーンも、上海楽壇の遺産を抜きには語れない。
 戦後、上海租界は消滅し、人々は四散した。日本人は戦争の記憶への忌避感から、中国人は半植民地化の屈辱感から、上海楽壇を忘れた。
 気鋭の研究者である著者は、租界時代の上海で発行された英・仏・露・独・中・日の各国語の新聞を史料として駆使し、上海楽壇の実像を浮き彫りにする。謎に包まれたユダヤ人興行主A・ストロークの全貌(ぜんぼう)も初めて明らかになる。
 ふだんなにげなく読み流す新聞の記事や興行広告が、これほど雄弁な史料になるとは。音楽文化と新聞の底力を、あらためて認識した。


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