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中朝国境(図們江)

最初の公開 2009.7.31
[三国国境]  [張鼓峰(ちょうこほう)]  [図們(ともん)市の橋]

 2009年7月16日〜19日、出張で中国の延辺朝鮮族自治区に行った。
 主な目的地は延吉市の延辺大学だったが、国境にも足を伸ばしてみた。

三国国境
 吉林市琿春市・防川にある三国(中朝露)国境地帯にて。
 観光スポットになっている。

 川の右側が北朝鮮領、左側がロシア領、手前が中国領。
 川の名前は、中国語では図們江(トゥーメンジャン)、韓国語では「두만강(トゥマンガン。漢字は豆満江)」、ロシア語では「Туманная」である。
 いずれも語源は満洲語「トゥメン」(意味は「万」)である。
 「日本海まで15km」のプレートがある。もしこの川をくだることが可能だったら、日本の新潟あたりまで一直線で近いのだが……
 実際にはここから日本に行くまでは、はるか西南の北京あたりまで戻ってから、あらためて東の日本に行かねばならない。
 つまり、壮大で無駄な三角形のルートである。


張鼓峰(ちょうこほう)
 張鼓峰のふもとにて。上記の防川の帰り道の、道路脇にある。

 石碑の文句──
 譲人類遠離戦争(人類をして戦争から離れしめよ)
 流蕩在異国他郷的亡霊,安息[口巴]!(異国他郷をさすらう霊魂よ、安らかなれ)
 (以下、原文略)2004年、中国の軍人が沙草峰の光ケーブル工事を行っていたとき、 張鼓峰事件の陣没者の遺品と遺骸を発見した。遺品は展示館に陳列してある。
 命を愛惜し、平和を祈念す、魂よ安らかなれ。
 特にこの石碑を立て、石に刻んで記すものなり。
   張鼓峰事件戦地展覧館監制
   琿春東北石材公司捐

 日本語・中国語「張鼓峰事件」。韓国語「장고봉 사건」。ロシア語「Хасанские бои」。英語「Battle of Lake Khasan」。
 昭和13年(満洲国の康徳5年、西暦1938年)7月29日から8月11日にかけて、写真の後ろに見える張鼓峰で国境紛争が起こり、日本軍とソ連軍が死闘を演じた。
 日本軍参加兵力2万余、戦死525名、戦傷913名。
 ソ連軍参加兵力2万2950名、戦死717名、戦傷2752名。
 日本軍はソ連軍の猛攻に耐えつつ、自国の主張する国境を死守した。
 ソ連軍を指揮した司令官ヴァシーリー・ブリュヘル元帥は、張鼓峰事件からわずか三ヶ月後の11月9日、スターリンの粛清によって 死亡。拷問によって片方の眼球が飛び出すほどの拷問を受けた末の獄死であった。
 日本軍を指揮した尾高亀蔵(すえたか かめぞう)中将は、その後も順調に昇進し、1941年予備役。1953年死去。

 現在、張鼓峰のふもとの道路脇には「張鼓峰事件戦地展覧館」がある。
 バラックに毛が生えたような質素な建物だが、入場は有料である。
 パネルによる写真展示のほか、ガラスケースの中に、旗にくるんだソ連兵の遺骨や、銃弾の貫通孔も生々しいソ連兵の鉄兜などの遺品が展示されている。
 この遺骨と遺品は、2004年の工事中に発見されたものである。
 この展覧館の後ろにあるのが、写真の石碑である。後ろに、標高わずか150メートルの張鼓峰が見える。

図們市の橋
 図們にて。図們江(豆満江)にかかるこの橋の半分から向こう側は北朝鮮。

 このあたりの図們江の川幅は狭く、歩いても渡れそうなほどである。有刺鉄線も何もない。
 橋の半分までは、お金を払えばわたれる(中国は、どこでもお金である)。
 写真には写ってないが、筆者の右のほうにTシャツを着たヤンキーのようなあんちゃんが一人だけ立っていて、 観光客にむかって「その線を踏むな!」と怒鳴りつづけている。人民解放軍のバイトかもしれないが、武器も何も 持ってない。中国の観光客は、あんちゃんに怒鳴られながら、確信犯的に線を一瞬踏み越えて記念写真をとっていた。
 たぶん、本当の「国境線」は、この線より向こう側の、川の中間あたりなのであろう。
 筆者は乗らなかったが、近くからは遊覧船も出ていて、北朝鮮側の岸辺まで近づくこともできるという。
 観光客が、面白半分にお菓子やタバコなどを投げると、北朝鮮の警備兵が草むらから出てきて上官に見つからぬよう こっそり拾う……という噂も聞いたが、目撃はできなかった。

 ここも中国側は観光地で、林立するみやげ店では、北朝鮮の紙幣や切っ手、タバコなどを売っている。
 ただし、店の売り子は「北朝鮮製のチョコレートだよ」と言いつつ、「ロッテ」と書いてある韓国製のチョコレートを売ろうとしたりするので、要注意。買う前には、必ず商品のハングルを読んで、北朝鮮製であることを確かめよう(^^;;

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