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追悼 陳舜臣先生

浜辺のおふたり

最初の公開2015-5-29 最新の更新 2015-5-29

 陳先生ほどやさしいかたを、私は見たことがない。
 筆者の記憶にある陳先生は、いつも静かに微笑んでいらっしゃる。
 「陳先生」とお呼びすることを、お許しいただきたい。中学生のとき、図書館にあった陳舜臣著『日本人と中国人』(祥伝社、1971年)を読んでファンとなった時から、私は勝手に「陳先生」とお慕いしてきた。先生は作家、史家、学者、漢詩人と多彩な顔をおもちだが、その全てが先生のお人がらの中で調和している。多方面のお仕事の根底には、自分が生まれた時代に対する熱い思いが一貫して流れている。陳先生こそ、最後の東洋的文人と言うべきかたではないか。そんな思いは、大学の教員となって久しい今も変わらない。
 陳先生に初めてファンレターを書いたのは、一九八三年の春、大学に入る直前のことだった。無知な若造だった私は、陳先生のお書きになったエッセイや小説に対する感想に、自作の下手な漢詩まで書き添えて、神戸のご自宅あてに郵送した。今と違い、昭和の日本では、図書館の名士録を見れば、著名人の自宅住所が簡単にわかったのである。さすがにご返事は期待していなかったけれど、次の正月、なんと陳先生から年賀状をいただいた。先生の自筆で、
「御返事が遅くなって申し訳ありません。お許しください。貴君の漢詩を読んで感心しました。今度、私の漢詩集を進呈しましょう」
 とあり、感激した。その後『風騒集−陳舜臣詩歌選』(現在は集英社『陳舜臣中国ライブラリー27』に収録)を送っていただいた。
 先生の奥様(陳未知さま)も、すばらしいかただ。私が下手な漢詩を書いたファンレターを送ったことを、奥様もずっと覚えていてくださった。
 人間の第一印象は恐ろしい。筆者が中年になったあとも、陳先生ご夫妻の目には、ずっと「漢詩のファンレターを書いて送ってきた加藤くん」のままだった。そのおかげで、陳先生と雑誌で対談させていただいたり、ご著書の文庫本の解説を書かせていただく機会にもめぐまれた。
 毎年二月、神戸の中華料理の名店「第一樓」で開かれる「陳先生を囲む会」に参加するのは、大きな楽しみだった。二十一世紀に入ったある年、会の前に、三国志の英雄・関羽をまつる神戸の関帝廟に行き、おみくじを引いた。「大凶」だった。「囲む会」の席でそれを話題にすると、奥様は、
「大凶と言うのはね、今が一番悪いけど、これから良くなる、ということなのよ」
 と慰めてくださった。目から鱗だった。
 私は話題をかえ、集英社から出た『陳舜臣中国ライブラリー』の月報の写真について、
「ハワイの浜辺で手を握って撮られたあの写真は、すばらしいですね」
 と申し上げた。二〇〇一年、ご夫妻がご静養のためハワイに行かれたときの写真である。おふたりは砂浜の浜辺に並んで立ち、透き通った海水にはだしでくるぶしまでつかり、はるか水平線を眺めている。海は鏡のように穏やかで、遠くにヨットも見える。長年、人生の苦楽をともにされてきたおふたりは、まるで遠足の幼稚園児のように、ぎゅっと互いの手を握りしめ、並んでいる。そんなご夫妻の後ろ姿を撮った写真だ。この写真は、『陳舜臣読本 Who is 陳舜臣?』(集英社、二〇〇三年)の口絵の頁でも見ることができる。私が、
「おふたりが手を堅く握りしめあっているお姿に、私も感動しました」
 と言った瞬間、奥様はまるで少女のように頬を赤く染めた。そして、
「あれは、高波が来てさらわれるといけないと思ったから」
 と、あわてて言い訳された。まわりが振り返るほど、大きな声だった。あの写真の静かな海をどう見ても、波にさらわれるとは思えないのだが。奥様のあわてぶりを見て、私は恐縮した。
 そんな一部始終を、陳先生は笑顔で御覧になっていた。
 残念なことに、奥様は二〇一一年に世を去られた。そして今、陳先生も旅立たれた。
 陳先生のご本は、書店や図書館にあふれている。あえて「さようなら」とは申し上げないが、これから陳舜臣文学の豊穣な世界と出会うであろう若い世代のぶんもふくめて、ここで感謝を申し上げたい。
 陳先生。奥様。ありがとうございました。どうぞそちらで、ゆっくりご静養くださいますよう。

掲載誌 月刊『小説すばる』2015年3月号(集英社)p.41-p.42

2015.5.26 神戸で行われた「陳舜臣先生を偲ぶ会」の会場ロビーにて。
陳舜臣,陳未知,蔡錦墩,ハワイ
この写真をハワイで撮影したのは宮田達夫さまです(当日、ご本人から伺いました)。

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