戦争を防ぐ方法は、防災と似ています。防災のためには、津波や地震などの歴史と教訓を学ぶ必要があります。同様に、平和を守るためにも過去の戦争の歴史を知る必要があります。本講座では、7世紀の白村江の戦いから16世紀の豊臣秀吉による朝鮮出兵まで、前近代の主な戦争と代表的な戦闘をとりあげ、歴史的背景や後世への影響、現代への教訓などを解説します。豊富な映像や図版を使って、予備知識のないかたにも、わかりやすく解説します。(講師・記) ※半年全6回を予定しています。今期は後半3回です。
戦争を防ぐ方法は、防災と似ています。防災のためには、津波や地震などの歴史と教訓を学ぶ必要があります。同様に、平和を守るためにも過去の戦争の歴史を知る必要があります。本講座では、7世紀の白村江の戦いから16世紀の豊臣秀吉による朝鮮出兵まで、前近代の主な戦争と代表的な戦闘をとりあげ、歴史的背景や後世への影響、現代への教訓などを解説します。豊富な映像や図版を使って、予備知識のないかたにも、わかりやすく解説します。(講師・記) ※半年全6回を予定しています。今期は前半3回です。4月期 各回テーマ
第1回 総論 アジアの「東方地中海」と戦争
元の世祖フビライが日本に遠征しようとしたとき、造船や食糧の準備はみなわが朝鮮国が担当し、戦闘にも加わったが、結局、勝てず、 隣の強国である日本と平和を失ってしまった。 かの「倭」の国土の地形は、楽器の琵琶が頭を西に向けて横たえたような形をしている。 倭から外に侵掠に出るのは簡単だが、外国の軍隊は倭に侵入できない。 それゆえ、中国の江蘇・浙江地方は、倭寇のひどい侵掠を受けているが、 どうにもできないのだ。大国である中国さえそうなのだから、まして小さなわが朝鮮国については、言うまでもない。
第2回 vs 唐・新羅:白村江の戦い
白村江 はくそんこう Baekchon-kangt
朝鮮,古代三国の一つである百済の滅亡後,その遺民およびこれを支援する日本軍と,新羅と唐の連合軍が戦った河川名。 百済の滅亡後,その遺民鬼室福信らは任存城に拠って抵抗を続け,当時日本にいた王子豊璋 (→豊璋王 ) を迎えて日本の支援のもとでなお戦う準備を進めた。 日本では斉明天皇が皇太子中大兄皇子 (→天智天皇 ) を従えて西下したが陣中に没し,代って皇太子が執政した。 王子豊璋を擁した日本軍は周留城に入ったが,百済側で内訌が起り,福信は豊璋に殺された。 新羅の文武王は唐将孫仁師,劉仁願らとともに周留城を攻め,一方劉仁軌らは水軍を率い白江 (白村江) に下って来着した日本水軍と戦った。 これが白村江の戦いといわれるもので,『日本書紀』によれば天智天皇の2年,唐の高宗の竜朔3年,新羅の文武王の3年 (663) ,8月のことであった。 海戦は2日目に日本水軍の大敗によって勝敗が決り,豊璋は高句麗に逃れた。 この戦いは以後の唐,新羅による高句麗征討の布石となるべきものであり,また日本にとっては,古代以来の対朝鮮進出政策が完全に挫折し,対外政策が大きく変る転機となった。 白村江 (日本では「はくすきのえ」と読む) が現在のどこに比定されるかについて錦江下流右岸とする津田左右吉,池内宏らの見解が有力であるが,なおほかにも異説が提出されており,確定をみない。
新羅 しらぎ
朝鮮古代の王国(4世紀中 (ごろ) 〜935)
「しんら」とも読む。三韓の一つである辰韓の斯盧 (しろ) 国を中心に統一されたもの。 日本・高句麗の圧力に苦しみながらも着実にその地歩を固め,562年任那 (みまな) を滅ぼし,ついで唐と結び660年に百済 (くだら) ,668年高句麗を倒して朝鮮を統一。 663年唐と結んで,日本を白村江 (はくそんこう) の戦いに破ったのち,しばらくして国交を回復した。 奈良時代には唐文化,特に仏教関係の移入に重要な役割を演じた。9世紀中ごろから群雄割拠の状態となり,935年高麗王朝の建国により滅亡した。
余豊璋 よ-ほうしょう
?−? 百済(くだら)(朝鮮)の義慈(ぎじ)王の王子。
人質として来日。皇極(こうぎょく)天皇2年(643)大和(奈良県)三輪山で養蜂(ようほう)をこころみたという。 660年百済滅亡の危機に送還要請があり,帰国して662年即位したが,翌年新羅(しらぎ)軍に攻められ,高句麗(こうくり)に逃亡したまま消息不明となった。 余豊,扶余豊,豊章,糺解,翹岐とも。
文武王 (ぶんぶおう) Mun-mu-wang 生没年:?-681
朝鮮,新羅の王。在位661-681年。姓は金,諱(いみな)は法敏。武烈王の太子として660年の百済討滅戦に金庾信(きんゆしん)らとともに参加,翌年王の病死により即位する。 唐軍に連合して,百済復興軍を抑え,663年日本の水軍をも白村江(錦江下流)に破り,さらに668年弟の金仁問らをさしむけて高句麗を滅ぼした。 この間,唐により鶏林州大都督に任命されて,新羅は唐の間接統治領である羈縻(きび)州となったが,高句麗復興軍を助けて唐と戦い,一時唐に新羅王の官爵を剥奪されながらも,唐の勢力を排除して671年百済旧領を,676年高句麗旧領の一部を領有し,半島部における三国統一を達成した。
執筆者:大井 剛
天智天皇5年(666)年、連合した唐と新羅は隣国の強国、高句麗の征討を開始しました。高句麗は危機的状況の中で外交使節団を大和朝廷へと派遣します。『日本書紀』には「二位玄武若光」の名が記されており、若光が使節団の一員として日本へと渡来した事が分かります。668年、建国から約700年間東アジアに強盛を誇った高句麗は滅亡し、若光は二度と故国の土を踏むことはありませんでした。
その後、大和朝廷に官人として仕える若光の名が文献に表れるのが『続日本書紀』大宝3年(703)年3月「従五位下の高麗の若光に王の姓を賜う」です。姓(かばね)とは、それぞれの家柄を定めるために大和朝廷が授与する称号で、王(こきし)の姓は外国の王族の出身者に与えられていたものでした。
第3回 vs 女真族:刀伊の入寇
この事件について、高校教科書では1〜2行程度しか触れられていません。 かつては「刀伊の入寇」という用語が使われていましたが、モンゴル襲来を「元寇」と呼んだのと同様に、自国の国益を重視する意識が色濃いため、 昨今の教科書ではより中立的な「刀伊事件」や「刀伊の来襲」と表記することが多いようです。本書でも本文中はおもに「刀伊事件」や「刀伊の来襲」を用い、書名は人口に膾炙している「刀伊の入寇」とさせてもらいました。
藤原隆家は、関白として栄華を極めた「藤原兼家(藤原道長の兄)」の次男として生まれます。作中にも描かれる通り、弱冠16歳にして日本の権力の中枢「公卿」に列する、まさに貴公子そのものです。参考 [原道長・藤原隆家らの系図藤]
しかし、父:道隆が没し、叔父:道長が関白となると、隆家の属する中関白家の運命は暗転。前段の導入を含め、「刀伊入寇」の物語はここからは始まります。
父:道隆を恨む花山天皇・隆家を政敵として睨む叔父:道長との熾烈な政治闘争。結果的に伊周・隆家兄弟は京を離れることとなりますが、京を離れたからこそ隆家の人生は花開いていきます。
大宰府(現:福岡県太宰府市)の長官として赴任した隆家は、刀伊の入寇にて異民族の襲来と戦い、その武名を轟かせていきます。(結果的に、隆家の系譜から奥州藤原氏をはじめ、各地で武士として活躍した人物が実在していることも驚きです)
刀伊の入寇 (といのにゅうこう)
平安中期の1019年(寛仁3)3月末〜4月に,いわゆる〈刀伊の賊〉が大宰府管内に侵入した事件。 刀伊とは高麗が蛮族とくに女真を呼んだもの。女真は後に金を建国するツングース系民族で,沿海州地方に住み,狩猟・牧畜を行い,高麗の北辺に接し,海から高麗に侵入・略奪を行っていた。 彼らは50余隻の船団でまず対馬・壱岐を襲い,さらに筑前国怡土郡等に侵入し,各地で千数百人の人々を捕らえ,老人や子どもを含む四百数十人を殺し,牛馬や犬を殺して食し,穀米を略奪し,民家45宇を焼く等の惨害を与えた。 現地最高責任者の中納言兼大宰権帥藤原隆家は,中央政府に急報するとともに,軍を整え防戦を命じた。 大宰府軍は勇戦これを撃退し,刀伊は最後に肥前国松浦郡を襲ったが,現地の武力に撃退され退去した。 この事件については藤原実資の日記《小右記》や,《朝野群載》所収の大宰府解文などの当時の記録により詳しく知ることができる。 活躍した大宰府軍の主力は,現地の武士的豪族の兵力であったと思われる。これら豪族の多くはまた大宰府や国衙等の官人の肩書を有していた。 中世武士団への過渡的な地方軍制のあり方が察せられるが,隆家の剛毅な性格がこれら豪族たちを心服させたと思われ,後世九州の有力武士で隆家の子孫と称するものが多い。 当初朝廷では侵入者が高麗かもしれないと疑っていたが,隆家は刀伊の追撃に際し,高麗の国境を侵さないよう慎重に命じている。 その後,高麗軍が女真の侵入を撃破した際,捕虜の日本人二百数十人を救出,手厚く保護して送還した。 それ以前,家族とともに捕らえられていた対馬判官代長岑諸近という者が脱出したが,残した老母を気づかい,禁令を破って高麗に渡り,捕虜の女子若干を伴って帰国,捕虜の状況等を報告した。 なお公卿の会議で,賊の撃退は追討の官符到着以前であるので恩賞は不必要という意見が一部から出されたが,貴族政治の形式主義がよくあらわれている。
執筆者:黒板 伸夫
刀伊の入寇 といのにゅうこう
平安中期の外敵侵入事件。 刀伊とは朝鮮語で夷狄(いてき)のことであるが、日本では沿海州地方に住んでいた女真(じょしん)族をさす。 1019年(寛仁3)3月高麗(こうらい)を襲った女真人が50艘(そう)余の船に分乗し、壱岐(いき)、対馬(つしま)に襲来し、ついで筑前(ちくぜん)国(福岡県)怡土(いと)郡を侵し、志麻(しま)郡、早良(さわら)郡を略奪した。 壱岐では守(かみ)藤原理忠(まさただ)以下多数が殺害されたり捕らえられて、残る者わずか35人と報告されている。 賊船の大きさは12尋(ひろ)ないし8.9尋。一船に?(かじ)30〜40。乗船員数は一艘につき30〜40ないし50〜60。弓矢をもつ者と盾をもつ者とが組んで一隊となり、10〜20隊もが上陸して山野を駆け巡り、馬牛を斬殺(ざんさつ)して食い、捕らえた老人子供は殺し、壮年は船に追い込み、人家を焼き、穀物を奪い、殺された者400余人、捕らえられた者は1000人を超えたという。 これに対し大宰府(だざいふ)では当時赴任していた権帥(ごんのそち)藤原隆家(たかいえ)が中心となり、京へ飛駅(ひえき)使を立て通報する一方で、大宰府官人を警固所に派遣し防戦にあたった。 賊は警固所を焼こうとして失敗し、筥崎宮(はこざきぐう)を焼こうとした試みも撃退され、現地住人らの奮戦もあり、対馬侵奪以来ほぼ1週間で、日本近海から退散した。 賊を撃退できたのは隆家以下の府官人および現地の勇士の健闘によるが、朝廷では、戦功抜群の者に褒賞(ほうしょう)を与えるという指示が出される以前に戦闘が終了していたことを理由に、与える必要がないという公卿(くぎょう)の意見もあり、論功行賞にはあまり積極的でなかったようである。 防戦過程において府官人の出動状況や現地住人の戦闘活動のほどが知られ、この事件を介し平安中期軍制の実態を知ることができる。
[森田 悌]
『土田直鎭著『王朝の貴族』(1965・中央公論社)』
藤原隆家 ふじわらのたかいえ (979―1044)
平安中期の公卿(くぎょう)。藤原道隆(みちたか)の4子。母は高階成忠(たかしなのなりただ)の女(むすめ)貴子、幼名を阿古という。 996年(長徳2)権中納言(ごんちゅうなごん)のとき、兄内大臣伊周(これちか)とともに、花山(かざん)法皇をおどし射った罪によって出雲権守(いずもごんのかみ)に配流され、病のため但馬(たじま)にとどまった。 997年、東三条院詮子(せんし)の病気によって伊周とともに召還された(『栄花物語』に誤りあり)。帰京し兵部卿(きょう)となり、本官に復し、のち従三位(じゅさんみ)に進んだ。 1002年(長保4)権中納言に再任され、04年(寛弘1)正三位、07年従二位、09年中納言となった。
三条(さんじょう)天皇の代となって眼病にかかり、宋(そう)の名医に治療を受けるという名目で1014年(長和3)大宰権帥(だざいのごんのそち)になり、翌年赴任。 正二位となる。19年(寛仁3)刀伊(とい)の賊の来襲を撃退したため武勇の名をあげた。 この年、任を辞して帰京、朝廷からは報いられず、23年(治安3)中納言を辞任。37年(長暦1)ふたたび大宰権帥に任ぜられ、42年(長久3)辞任した。長久(ちょうきゅう)5年正月1日薨(こう)じた。
[山中 裕]
| 原文:二十五日、壬子。早旦、惟円、来たりて云はく、「鎮西の事、已に音無し」てへり。即ち帰り去る後、幾くならず、来たりて云はく、「備中より参上する者、申して云はく、『異国の者厶人、壱岐島に於いて打ち得。其の一人を兵士に付し、参上せしむ』てへり」と。先づ言上を経、左右すべきか。直ちに参上せしむるは如何。山埼に留め、府解を進るべき由を指し示し了んぬ<後に聞く、「此の事、大虚言。更に参上せしむる者無し」と云々。近代、只、虚を以て宗と為す。>。酉時ばかり、惟円、帥の書<去ぬる十六日の書。>を持ちて示す。「異国人、来たる。九日、来着す。合戦等の子細、府解に在り」と。又、辞退すべきや否やの事を示す。惟円、云はく、「使者、隼船に乗りて参上す。但し異国、八日、俄かに能古島に来着す。同九日、博多田に乱り登る。府兵、忽然と徴発すること能はず。先づ平為忠・同為方等、帥の首と為て、合戦に馳せ向かふ。異国軍、多く射殺さる。戦場に留めず、船中に持ち入る。又、棄て置く者有り。又、生虜となる者等有り。又、兵具・甲冑を奪ひ取る」てへり。「一船の中に五・六十人有り。合戦の場、人毎に楯を持つ。前陣の者、鉾を持つ。次陣、大刀を持つ。次陣、弓箭の者。箭の長さ、一尺余りばかり。射力、太だ猛し。楯を穿ち、人に中つ。府軍の射殺さるる者、只、下人なり。将軍たる者、射られず。馬に乗り、馳せ向かひ、射取る。只、加不良の声を恐れ、引き退く<『刀伊国の人の中、新羅国の人等有り』と云々。>。船に乗りて遁れ去る。岸に傍ひ、船を掉さす。府軍等、兵船無きに依り、追撃すること能はず。陸路より馳せ行く。刀人、更に船を下り、筥前宮を焼かんと欲す。府兵、前行の兵一人を射殺す。驚きて船に乗り、逃遁す。十日・十一日、北風、猛烈なり。還り渡ることを得ず、海中に逗留す。神明の為す所か。両日の間、府、兵船三十八艘を営造せしめ、追ひ襲はしむ。賊徒、遁れ去り、本州を指して漕ぎ去る。府の兵船、又、今、二十余艘、勝ちに乗じて之を逐ふ。又、致行朝臣、十余艘を調へ、相逢ふ。但し先づ壱岐・対馬等の島に到るべし。日本の境に限り、襲撃すべし。新羅の境に入るべからざる由、都督、誡め仰する所なり」てへり。使者、又、云はく、「只今のごとくんば、討ち平らげらるるに似るなり。賊徒の甲冑・兵具等、少々、奪ひ取らる」と。又、云はく、「陸路より刀伊国の者を捕へ進らしむる由、十六日以前、承らざる所なり」てへり。縦横の説、信受し難きのみ。 後に帥の使の説を聞くに、「壱岐・対馬島の人等、悉く船に取り載す。合戦の間、島人等、叫びて云はく、『馬を馳せかけて射よ。おく病しにたり』と。仍りて官軍等、馳せ進みて射る。刀人、遁走して船に帰り乗る。此の間、取り載せらるる二島の者、多く船より下り、博多田に遁れ来たる。云はく、『件の刀人の為体、多く食し、又、多く水を飲む。馬を馳せ、加不良を以て射るに、恐怖の気有り』てへり。又、云はく、『児を以て荒巻と為し、博多田津に落とし置く』と云々。『人を食ふ』と」と云々。 | 訳文:二十五日、壬子。 早朝、惟円がやって来て言った。 「鎮西(九州)からは、もう何の知らせもありません」 そう言って帰ったが、しばらくしてまた来て言った。 「備中から上京した者が申すには、『異国の者数人を壱岐島で討ち取り、そのうち一人を兵士につけて都へ送っている』とのことです」 まず朝廷への報告を経てから処置すべきであろうか。 それとも直ちに参上させるべきであろうか。 結局、山崎に留め置き、太宰府からの正式な報告文(府解)を提出させるべき旨を指示した。 (後に聞いたところでは、「この話はまったくの虚報であり、実際には都へ送られてきた者などいなかった」という。近ごろは、ただ虚偽を事とするばかりである。) 夕方六時ごろ、惟円が大宰帥からの書状(去る十六日付)を持参して見せた。 そこにはこうあった。 「異国人が襲来した。九日に到着した。戦闘の詳細は太宰府の報告書にある」 また、辞退(官職を辞すること)すべきかどうかについても書かれていた。 惟円が言うには、使者は隼船に乗ってやって来たという。 ただし、異国の賊は八日、突然能古島に来着した。 九日には博多の海岸に乱入した。 太宰府軍は急な徴発が間に合わず、まず平為忠・平為方らが大宰帥の先鋒となって戦場へ駆けつけた。 異国軍の多くは射殺されたが、仲間たちはその死体を船に運び込んだ。 また、その場に捨て置かれた者もいた。 生け捕りにされた者もいた。 兵器や甲冑を奪い取ることもできた。 敵船一艘には五、六十人が乗っていた。 戦闘では、兵士は一人ひとり楯を持ち、 前列の者は鉾を持ち 次列は大刀を持ち さらに後列は弓矢を持っていた その矢は長さ一尺余りで、威力はきわめて強く、楯を貫いて人に当たった。 太宰府軍で射殺されたのは下級兵士だけで、将クラスの者は射られなかった。 彼らは馬で駆けながら射撃した。 ただ、敵が発する「カブラ(鏑矢、あるいは異様な叫び声)」を恐れて、いったん退却した。 (「刀伊の中には新羅の人もいた」という。) その後、敵は船に乗って逃げた。 海岸沿いに船を漕いで進んだため、太宰府軍は船がなく追撃できず、陸路から追った。 賊はさらに上陸して、筥崎宮を焼こうとしたが、官軍が先頭の兵一人を射殺したので、驚いて船に逃げ戻った。 十日・十一日は北風が激しく、敵は海を渡って帰ることができず、海上に停泊した。 これは神仏の加護であろうか。 その二日間のうちに、太宰府では兵船三十八艘を急造して追撃させた。 賊は逃げ、本州方面へ漕ぎ去った。 太宰府軍はさらに二十余艘で勝勢に乗じて追撃し、また致行朝臣も十余艘を整えて合流した。 ただし、まず壱岐・対馬などの島に赴くべきであり、日本の領域内に限って攻撃せよ、新羅の領内へ入ってはならぬ、と都督から厳命されているという。 使者はさらに言った。 「このままなら、賊は討ち平らげられそうです。甲冑や兵具もいくらか奪っています」 また、 「陸路から刀伊国の者を捕えて都へ送るという話は、十六日以前には聞いていません」 とも言った。 さまざまな説が入り乱れ、どれも容易には信じがたい。 その後、大宰帥の別の使者の話を聞くと、 壱岐・対馬の島民たちはことごとく敵船に連れ去られたという。 戦闘中、島民たちは叫んで、 「馬を駆けさせて射なさい。あいつらは馬に慣れていない!」 と言った。 そこで官軍が馬で突進して射かけると、敵は逃げて船へ戻った。 その隙に、連れ去られていた島民の多くが船から逃げ出し、博多の浜へ逃げ着いた。 彼らの話では、 「刀伊の者たちは非常によく食べ、また大量の水を飲む。 馬で突撃し、鏑矢を放つと、恐れる様子を見せた」 という。 さらに、 「幼児を荒巻(荷物のように縛ったもの)にして、博多の浜に投げ捨てた」 ともいう。 そして、 「人を食う」 とも語られた。 |
――なぜ日本は刀伊を撃退できたのでしょうか。
関:当時、律令時代の農民を中心とする軍団制は解体し、有名無実の状態でした。結果として、武芸に秀でた精兵が異賊の迎撃に当たったのでした。
彼らはその出自から2つのタイプに分類できます。 一つは藤原隆家ら中央貴族の護衛で九州に下向した「ヤムゴトナキ武者」で、その多くは10世紀前半の反乱(平将門の乱と藤原純友の乱)を鎮圧した功臣の末裔でした。 そしてもう一つは地域に根差した名士で「住人」と呼ばれた人々でした。
要するに、有事に際して中央系の「ヤムゴトナキ武者」と地方系の「住人」から成る混成部隊がうまく機能したのです。 刀伊の入寇に対する防衛戦争においては、律令国家の古代的軍制とは異なる、王朝国家の軍制のあり方が見て取れます。 それは、来たるべき中世国家の軍制の前提と言えるものです。
中国と北朝鮮の国境に位置する白頭山では、9世紀中葉から10世紀の946年〜947年にかけて断続的に巨大噴火(ミレニアム噴火)が発生した。このミレニアム噴火が周辺にある日本、中国東北部や朝鮮の歴史に対してどのような影響を与えたのか、主として古文書をもとに検討を試みた。その結果、これらの周辺地域の歴史に対しては以下の二点で大きな影響が推定された。平安時代初期から中期にかけての主として京都における自然界での異変(陽や月の色、雷のような大音)や人間界での異変(咳逆病・眼病などの疫病や飢饉など)の発生は多量の火山灰の降下で説明される。その結果として生まれた混乱状況を打破しようとした京都祇園祭はミレニアム噴火によると言っても言い過ぎではないであろう。さらに、同じころ満州や朝鮮北部ではミレニアム噴火によって多くの集落が消滅している。この被災地域に住んでいた女真族は生活を続けることが出来なくなり、他地域への侵攻を取らざるをえなくなった。そうして生まれたのが、1019年3月に九州を襲った「刀伊の入寇」である。
第4回07/23 vs 元・高麗:元寇
げん‐こう【元寇】
鎌倉時代、元(蒙古)が、日本を侵略しようとして、文永一一年(一二七四)一〇月、および弘安四年(一二八一)七月に、博多に来襲してきた戦役。 軍事力による応戦と季節的な大風による被害によって、蒙古軍は二度とも敗退したが、この時の大風は、のちに「神風」と喧伝された。文永・弘安の役。蒙古来襲。
蒙古襲来絵詞 もうこしゅうらいえことば
「竹崎季長(すえなが)絵詞」とも。鎌倉後期の文永・弘安の2回にわたる蒙古軍との戦闘を描いた絵巻。戦闘に参加した肥後国の御家人竹崎五郎季長が,自分の武勲を中心に描かせたもの。 巻末の文書に,この戦功によって恩賞をえたのは甲佐大明神の神恩によるものであり,その報恩と子孫への教訓のために絵巻を制作したとある。 戦闘の詳しい状況や,武士たちの面貌の特色,さらに服飾など,細部まで描写しており,詞書(ことばがき)のほか,画中にも人名・地名が記入され,記録的な性格を示す。 制作時期は,奥書の1293年(永仁元)頃と推定される。紙本着色,2巻。上巻,縦39.3cm,横2324.3cm。下巻,縦39.7cm,横1985.6cm。宮内庁蔵。
八幡愚童訓 (はちまんぐどうくん)
鎌倉末期に成立した石清水八幡宮の霊験記。《八幡愚童記》《八幡宮愚童記》などともいう。筆者は石清水八幡宮の神宮寺大乗院関係の社僧かと考えられるが,個人名を特定するまでに至っていない。同題名で内容の異なる2種類のものがある。群書類従所収本は,神功皇后のいわゆる〈三韓征伐〉と皇后の子で八幡大菩薩とされる応神天皇のこと,文永と弘安両度の蒙古襲来の状況とその襲来が大菩薩の力により平定されたこと,とくに弘安の場合に思円上人(叡尊)の祈?によるところが大きかったことが強調されており,本書の成立に社寺の祈?に対する朝廷の恩賞の問題がかかわっていたことがうかがえる。続群書類従所収本は,垂迹,名号,遷坐,御躰,本地,王位,氏人,慈悲,放生会,受戒,正直,不浄,仏法,後世の14章にわたり神徳霊験が説かれている。群書類従本には〈降伏事〉という見出しがみられ,かつては続群書類従本の一章をなしていたものが,蒙古襲来の祈?とその恩賞問題を機に増補され独立したものかと思われる。両者とも伝本には時代による加筆,増補がみられ,唱導の徒がかかわっていたらしい。
執筆者:西垣 晴次
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『高麗史』: 李氏朝鮮時代の1451年に完成した高麗の歴史書。高麗軍の強さを、実際以上に持ち上げる傾向がある。 高麗軍は、元軍と共に戦った。元軍は激戦で疲弊し、左副都元帥・劉復亨が流れ矢を受け負傷して船へと退避するなど、苦戦を強いられ、日が暮れたのを機に撤退した。 『高麗史』金方慶伝に、この夜の軍議を載せる。 高麗軍司令官・都督使・金方慶「兵法に『千里の県軍、その鋒当たるべからず』という。本国を離れ敵地に入った軍は、志気が上がり戦闘能力が高まる。我が軍は少いが敵地に入っており、おのずと戦うことになる。これは秦の孟明の『焚船』や漢の韓信の『背水の陣』の故事と同じ状況だ。再度戦わせて頂きたい」 元軍総司令官・都元帥・クドゥン(忽敦)「孫子の兵法に『小敵の堅は大敵の擒なり』という。少数の軍勢が頑強に戦えば、かえって多数の兵力の捕虜になる。疲弊した兵力で、日増しに増える敵軍に立ち向かうのは、完璧な策とは言えない。撤退すべきだ」 日本軍は日増しに増える大軍で、元軍は増援のない少数だと認識していた。 |
では、なぜ幕府軍が一騎打ちをしていたと後世に伝わってしまったのか。服部英雄氏は、文永の役の重要史料とされてきた「八幡愚童訓」(はちまんぐどうくん)が原因であると指摘しています。以下、花園 祐「元寇「神風のおかげで日本がミラクル大勝利」は本当か 覆される元寇の常識(第2回)」2024.3.9(土)より引用。引用開始
八幡愚童訓とは、元寇が終わってから数十年後に書かれたとされる史料です。文永の役、特に対馬や壱岐島における戦闘を描いた唯一と言っていい史料で、これまで両島における戦いに関する研究はほぼこの資料のみに依存してきました。先ほどの一騎打ち戦法の無力さに関する記述も、この八幡愚童訓を出典としています。
(中略) そもそも八幡愚童訓の記述は全体からして非常に怪しく、“トンデモ本”と言っても過言ではないような内容です。具体的には、幕府軍が元軍に散々に打ち負かされて退却した後、八幡神の化身である白装束の神兵30人が現れて元軍を追い返したので日本は守られたと書かれてあります。言うまでもなく、中国側の史料に神兵が出てきたなどという記述はありません。
(中略) 元軍の残虐性を示すエピソードとして、「対馬や壱岐島で捕らえた女性の手のひらに穴を開け、ひもを通して数珠繋ぎにして船に括り付けた」という話も伝えられています。この話は日蓮宗の開祖である日蓮が書いた書状に書かれたものですが、逆を言うと、その日蓮の書状以外には一切見られない描写です。
(弘安の役では)確かに日本を助けるかのように台風が元軍に大きな打撃を与えたわけですが、その台風が来るまでの間、日本側が約2カ月にわたって防戦し続けた事実を見逃すことはできません。現代中国の評価においても、弘安の役の元軍の敗戦理由は日本武士団の頑強な抵抗によるもので、台風は最後の追い打ちをかけただけ、という見方がなされているようです。
第5回08/27 vs 元/明・高麗/朝鮮:倭寇
かい‐ぞく【海賊】
1 海上を横行し、往来の船などを襲い、財貨を脅し取る盗賊。
2 中世、海上戦力にすぐれた武士とその集団。北九州・瀬戸内海に本拠をもつものが多かった。水軍。
3 法律用語。公海や公空を横行し、船や航空機を襲って暴行・略奪などする盗賊で、国際条約による取り締まりの対象とされるもの。
(以下略)
倭寇(わこう) 13〜16世紀に朝鮮半島や中国沿岸で略奪を行った武装商人団。 九州北部や瀬戸内海の豪族や漁民が中心だったが、朝鮮半島出身者も参加。もともとは貿易を目的としていたが、次第にコメの略奪や住民を殺害するなど海賊化したとされる。 一大勢力がいたとされる対馬に朝鮮側は掃討のために大軍を送り込んだこともあった。15世紀に入ると、徐々に平和的な貿易を行う「海商」に変化。中国人が中心となり、中国南部にも拡大したという。 豊臣秀吉の海賊取締令で衰退したとみられている。(共同)
更新日:2017年1月26日
倭寇 わこう
中国大陸・朝鮮半島で略奪行為を行った海賊集団に対する中国・朝鮮側の呼称。おもに13〜16世紀の海賊集団をさす。 最盛期は14〜16世紀で,14〜15世紀に活動した前期倭寇(14〜15世紀の倭寇とも)と16世紀に活動した後期倭寇(16世紀の倭寇とも)にわけられる。 13世紀,松浦(まつら)党などが朝鮮半島を襲撃したのを初発期の倭寇とよぶ見解もある。民族・国籍をこえて連合した集団である点が特徴。 前期倭寇は1350年(観応元・正平5)以降に朝鮮半島,ついで中国大陸を襲撃したもの。近年の研究では,済州島の海民や禾尺(かしゃく)・才人(さいじん)とよばれる高麗の賤民などの朝鮮人が参加したとみられている。 これに,朝鮮側が三島の倭寇と認識した対馬・壱岐・松浦地方を拠点とした海民などの日本人が連合し,米や人などを略奪した。 明の海禁政策や,朝鮮の懐柔策,明や高麗・李氏朝鮮の要請による日本側の倭寇禁圧の結果,倭寇の多くは向化(こうか)倭人・使送倭人などの平和的貿易者に変質し鎮静化した。 16世紀,アジア海域の貿易が活発化し,明の海禁政策がゆきづまり,密貿易者が横行するが,密貿易者の武装集団が後期倭寇で,中国の舟山(しゅうざん)群島や浙江(せっこう)・福建(ふっけん),日本の五島列島などで活動した。 その大半は中国人で,日本人は1〜2割程度,ポルトガル人・スペイン人も含まれていた。首領として,王直(おうちょく)が有名。 明が海禁を緩和し,豊臣秀吉が1588年(天正16)ばはん禁止令(海賊禁止令)を発令したことで,鎮静化した。
八幡船 ばはんせん※加藤注:「バハン」外国語由来説でも、原語については謎である。中国語の「発販」もしくは「番舶」、ポルトガル語の「abafar」(もみ消す)、海のピジン言語(異なる言語を話す者どうしが意思疎通を行うため自然発生的に作り上げた接触言語・補助言語)由来説など諸説があるが、どれも憶測の域を出ない。
日本以外の地、すなわち中国その他に略奪に行くことをバハンといい、また他国へ略奪に行く盗賊の船をバハンブネと称した。 中国では「発販」「破幡」「破帆」「波発」「白波」「彭享」とバハンは発音され、日本では「番販」「奪販」「八幡」「謀叛」「婆波牟」、あるいは単に平仮名で「ばはん」があてられた。
バハンの語源については、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)の信仰に由来するという説と、ポルトガルや中国などの外国語に由来するとの二つの説がある。 前者は、江戸時代の1719年(享保4)香西成資(こうざいしげすけ)の『南海治乱記(なんかいちらんき)』が「わが国の賊船が八幡宮の幟(のぼり)を立て、洋中に出て、西蕃(せいばん)の貿易を侵して財産を奪った。その賊船を八幡船とよんだ」と記しているのが出所である。 海上安全を祈願して八幡大菩薩の幟を立てたことは一般的な風習だが、そこにバハン船の語源を求めるのは賛成できない。外国語に由来しているとみたほうが妥当であろう。のち、バハンは海賊行為や略奪行為一般をさし、江戸時代には抜け荷もそうよぶようになった。
[宇田川武久]
『田中健夫著『倭寇』(教育社歴史新書)』▽『宇田川武久著『瀬戸内水軍』(教育社歴史新書)』
宮崎:
悪路王をしずめた立烏帽子という絶世の美女の伝説があるんですが、実は私の山小屋のある村が烏帽子といいまして(笑)。 案外、出発点はそのあたりだったりするんです。 海外に売られて、中国人の倭寇の大親分の妻になって、腕を磨いて、あげく男を殺して財宝を奪って、戻ってきた女とか(笑)。
戦国乱世の頃、瀬戸内海を根城に遠く明国、朝鮮、ルソン、シャムの諸国に八幡船は船首に八幡題菩薩の旗印をかかげ、交易、通商に雄飛した。永禄四年、貿易港堺の船問屋壷屋道休の息子鹿門は、 (以下略)
中世の日本近海で猛威を振るった海賊・倭寇に立ち向かった明の武将・威継光の実話をもとに壮大なスケールで描いた戦国アクション大作。 16世紀の中国。兪大猷将軍率いる明軍は、沿岸部を荒らし回る倭寇を阻止するべく奮戦していた。 倭寇を指揮する男の正体は松浦藩の武士で、彼は部下たちと共に浪人たちを率いて倭寇の名を騙り、藩の武器購入の足がかりとして明の財と地を奪おうとしていた。 地の利を活かした倭寇の砦に明軍が苦戦を強いられる中、明の武将・戚継光の登場により戦況は一変。知力に長け人望も厚い彼は、軍を率いて倭寇の砦の撃破に成功する。 一方、撤退した倭寇たちも謀略を巡らして反撃の機会を狙う。 「画皮 あやかしの恋」のゴードン・チャンが監督を務め、 キャストには「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ」シリーズのチウ・マンチェク、「燃えよデブゴン」のサモ・ハン・キンポー、 「バタフライ・ラヴァーズ」のワン・チェンらアジア各国の人気スターが集結。日本からは「レジェンド・オブ・フィスト 怒りの鉄拳」の倉田保昭が参加。ヒューマントラストシネマ渋谷、シネ・リーブル梅田で開催の「未体験ゾーンの映画たち2018」上映作品。
第6回09/24 vs 明・朝鮮:朝鮮出兵
文禄の役 ぶんろくのえき
1592年(文禄元)4月,豊臣秀吉が明征服をめざして朝鮮に侵略した戦争(第1次朝鮮侵略)。朝鮮側では壬辰(じんしん)の倭乱とよぶ。 これより先,秀吉は東アジア征服構想をたて,対馬の宗氏を通じて朝鮮に服属と明への先導を命じた。 交易上,朝鮮と密接な関係にあった宗氏は,秀吉の日本統一を祝賀する通信使派遣によってその命令をすりかえたが,秀吉はこれを征明嚮導の服属使節と思いこみ,16万の兵を朝鮮に送った。 これを予期しなかった朝鮮側は防戦したものの敗北を重ね,同年5月漢城(現,ソウル)が陥落,朝鮮国王は義州に難を避け,明の救援を仰いだ。 日本軍は小西行長が平壌,加藤清正が咸鏡道まで侵入するなど朝鮮全域の支配をめざし,朝鮮農民から兵粮の徴発をした。 しかし朝鮮各地での義兵決起,朝鮮官軍の立ち直り,李舜臣(りしゅんしん)の朝鮮水軍による日本軍の補給路遮断があり,明軍もいち早く朝鮮を救援した。 ここに日本軍は武器・兵粮不足に陥り,攻守所を変えた。翌年1月7日李如松(りじょしょう)の率いる明軍は小西行長の拠る平壌を陥れ,漢城めざして南下したが, 碧蹄館(へきていかん)で小早川隆景らの日本軍の反撃にあい,戦意を喪失した。このあと日明間で講和の機運がもちあがり,朝鮮側の反対をおしきって講和交渉が進められた。
慶長の役 けいちょうのえき
1597年(慶長2)2月〜98年11月の豊臣秀吉の第2次朝鮮侵略。朝鮮側では丁酉(ていゆう)の倭乱とよぶ。 秀吉は日明講和交渉で,明皇帝の皇女を日本の天皇の后にすること,日明間の勘合を復活し官船・商船を往来させること,朝鮮南4道の日本割譲など和議条件7カ条を提示したがいれられず, 明皇帝からは「茲(ここ)に爾(なんじ)を封(ほう)じて日本国王と為す」との誥命(こうめい)のみで,講和交渉は破綻。 秀吉は朝鮮南4道を実力で奪うため,97年朝鮮に約14万を再派兵。 7月,日本軍は慶尚道巨済島で元均(げんきん)の率いる朝鮮水軍を破り,8月全羅道南原城を陥れた。これに対し明・朝鮮側も反撃の態勢を固め, 12月蔚山(ウルサン)新城の包囲(蔚山の戦),翌98年10月泗川(しせん)新城の攻撃を行った。 結局同年8月の秀吉の死を機に日本軍は10月から朝鮮撤退を始めたが,この侵略で朝鮮抗日組織指導者の惨殺,朝鮮民衆の鼻切りなどの残虐行為のほか,農民・陶工・朱子学者など朝鮮人捕虜の日本強制連行を行った。
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壬辰倭寇(文禄・慶長の役)について、中国の『明史』と、わが国(朝鮮)の人はみなこう述べる。「平秀吉(豊臣秀吉の唐名)は、自分の主人を殺して自立し、日本の国中を威圧するために多数の人々を誅殺し、さらに天に矢を射るような無謀な対外戦争まで仕組んだのだ」。これは間違いである。…【中略】… 当時、中国人の許儀後という者が、日本の薩摩州に身を寄せていたが、日本の秘密を詳しく手紙に書いて、こっそり中国に報告した。許儀後の近所に住んでいた中国人は、許儀後のスバイ行為を当局に密告した。秀吉の側近は全員、許儀後を極刑である釜ゆでの刑にすべきだ、と秀吉に上奏した。しかし、秀吉は言った。 「許儀後はもともと明国の人間だ。明国のために日本の秘密を伝えるのは、事のすじみちとして当然のことである。また、他人の油断に乗じて不意打ちをかけるのは、私の本意ではない。まして、古今東西の帝王は、昔からみな社会の底辺の出身者ばかりだ。私が賎しい素性の者だということが大明国に知られても、別に悪いことではない」。 秀吉はそう言って、許儀後のスパイ行為を不問に付した。そして、許儀後を密告した中国人に向かって言った。 「おまえも明国人だろう。同じ明国人をあえて密告するとは、おまえはとんでもない悪人だ」。 このことから考えると、秀吉もかなりの力量をもつ、非凡な人物であったことがわかる。小さな島国の蛮族から身を起こし、海を渡って大国と戦争をすれば、負けるのも必然である。 もし秀吉が、中国に生まれて自分の胸の思いを存分に行うことができていたら、ひょっとして世界征服に成功していたかもしれない。 |
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僧・惟政、号は松雲。壬辰戦争の後、僧侶の義勇軍の将となり、嶺南の地に布陣した。 敵将の清正が「会見したい」と申し出た。松雲は倭軍の陣営に入った。清正は倭軍の強大さを示して松雲を威圧するため、兵隊たちに鋭い槍や剣を束のように抱えさせ、数里の長きにわたってずらりと立ち並ばせた。だが松雲は少しも怖がる顔色を見せない。清正に会い、ゆるやかな雰囲気で談笑した。清正は松雲に言った。 「貴国に、何か宝物があるか」 松雲は答えた。 「ある。他でもない。おまえの頭こそ宝だ」 「どういう意味だ」 「賞金首だよ。わが国は、おまえの首を、千斤の黄金と万戸の領地と引き替えにしても買い取る。これが宝でなくて何だね」 清正は呵々大笑した。 以上は痛快な逸話だが、作り話だと言う人もいる。「この時、清正の軍隊は強大で、松雲はちょっと会見しただけですぐに退出した。こんな危ない言葉を口にするはずがない。きっと誇張だろう」という説もある。 この十年後、松雲は講和のため日本に乗り込んだ。日本の連中は、松雲が帰国するまで厚くもてなした。 |
日本には国王がいて、その下では「関白」と称する者が最も高い地位にあった。当時、この地位には山城国出身の織田信長が就いていた。
あるとき信長がたまたま狩りに出かけたところ、木の下に一人の男が横になっているのを見つけた。信長が驚いて起こそうとすると、その男が立ち上がってぶつかったため、捕らえて問いただした。 男は、自分は平秀吉といい、薩摩国の人間の奴隷であると答えた。身体はたくましく、身軽で動きが素早く、弁舌にも長けていた。信長は秀吉を気に入り、馬の世話をさせ、その名を「木下人」とした。
その後、秀吉は次第に重用されるようになり、信長のために策略を立て、二十余州を攻略・併合した。そして、ついには摂津を守る大将となった。
信長には「阿奇支」という参謀がいたが、信長の怒りを買ったため、信長は秀吉に兵を率いてこれを討つよう命じた。 ところが、まもなく信長は、その部下である明智によって殺された。秀吉はちょうど阿奇支を攻め滅ぼそうとしていたところでこの変事を知り、部将の行長らとともに勝ちに乗じて軍を引き返し、明智を討った。これによって秀吉の威勢と名声はいっそう高まった。 やがて秀吉は信長の三男を廃し、身分を越えて自ら関白を称し、信長の軍勢をことごとく手中に収めた。時に明の万暦十四年(1586年)である。
そこで秀吉はますます軍備を整え、六十六州を征服した。さらにその威勢をもって琉球、呂宋、暹羅、仏郎機などの国々を脅し、いずれも朝貢させた。 そして国王の住む山城の地を改めて「大閣」と称し、城郭を広く築き、宮殿を建てた。その楼閣には九重にも及ぶものがあり、そこに婦人や珍宝を収めた。 秀吉の法令は厳しく、軍隊を進めるときには前進あるのみで、退くことを許さなかった。命令に背いた者は、たとえ自分の子や娘婿であっても処刑した。そのため、秀吉の軍は行く先々で無敵であった。
やがて秀吉は元号を文禄と改め、中国を侵略し、朝鮮を滅ぼしてその領土を手に入れようとした。 秀吉は、かつて中国沿岸を荒らした汪直の残党を呼び寄せて事情を尋ねた。彼らから「中国人は倭人を虎のように恐れている」と聞いたため、秀吉はますます増長した。 そこでさらに大量の武器・甲冑を用意し、船団を整備した。そして部下たちと相談し、中国の北京に入るときには朝鮮人を案内役に使い、浙江・福建沿岸の郡県に侵入するときには中国人を案内役に使う計画を立てた。 琉球がこの計画を中国に漏らすことを恐れ、琉球に朝貢に来ないよう命じた。
同安の人で陳甲という者が琉球で商売をしていた。中国に害が及ぶことを恐れ、琉球の長史である鄭迥と相談し、琉球から中国への朝貢・冊封を求める使節に同行して、その計画を詳しく中国側に知らせた。 陳甲はその後、故郷に戻り、巡撫の趙参魯にもこのことを報告した。趙参魯はこれを朝廷に報告し、兵部に伝えた。兵部は朝鮮国王に知らせた。 しかし朝鮮国王は、案内役に関する話が事実ではないことを詳しく説明するだけで、秀吉が自国を侵略しようとしていることには気づかなかった。
そのころ秀吉は、全国の諸大名から大量の兵を集め、三年分の兵糧を蓄え、自ら軍を率いて中国へ攻め込もうとしていた。 ところが、秀吉の子が死んでしまい、後継者となる兄弟もいなかった。さらに、以前に豊後の領主の妻を奪って側室としていたため、その女性が後々の災いになることも恐れていた。 また、諸大名は秀吉の苛烈な政治を恨んでおり、皆、 「今回の遠征は大唐を襲うためではない。我々を襲うためのものだ」 と考え、それぞれ心中に別の思惑を抱いていた。 そのため秀吉は、自ら遠征することをためらうようになった。
万暦二十年(1592年)四月、秀吉は配下の将である清正・行長・義智、僧の玄蘇・宗逸らに数百隻の船を率いさせ、対馬から海を渡って朝鮮の釜山を攻め落とした。 その勢いのまま進軍を続け、五月には臨津江を渡り、開城を略奪し、豊徳などの諸郡を次々に占領した。 朝鮮軍は日本軍の勢いを見ただけで崩れ、清正らはついに王都に迫った。 朝鮮国王・李昖(りえん 宣祖)は王都を捨てて平壌へ逃れ、さらに義州へ逃れた。そして次々と使者を送り、救援を求めた。 日本軍はついに王都に入り、国王の妃や王子を捕らえ、さらに平壌まで追撃した。その一方で兵士たちは略奪や暴行を行った。
七月、明は副総兵の祖承訓を救援軍として派遣した。しかし平壌城外で日本軍と戦って大敗し、祖承訓はかろうじて逃げ延びた。
八月、明朝はようやく本格的な援軍を送ることを決めた。兵部侍郎の宋応昌を経略に、都督の李如松を提督に任命し、軍を率いて日本軍を討たせた。
当時、明では寧夏の反乱もまだ鎮定されておらず、そこへ朝鮮での戦争まで起こったため、兵部尚書の石星は対応に苦慮していた。 そこで、倭人を説得できる人物を募って情報を探らせたところ、嘉興の人である沈惟敬がこれに応じた。石星は沈惟敬に遊撃将軍の肩書きを与え、李如松の指揮下に送った。
翌年、李如松の軍は平壌で日本軍に大勝し、朝鮮が失っていた四道をすべて回復した。 李如松はその勢いに乗って碧蹄館へ進んだが、そこで敗れて軍を退いた。
こうして、日本と明との間で講和・冊封をめぐる交渉が始まった。明朝は沈惟敬を仲介役として両国の交渉をまとめようとした。この詳しい経緯については、朝鮮に関する記録に記されている。
その後、秀吉が死ぬと、日本軍は一斉に船を出して帰国し、朝鮮の戦乱もようやく収まった。
そもそも関白秀吉が東方の国(日本)から侵攻を始めて以来、前後七年間にわたり、明・朝鮮は数十万の兵を失い、数百万の軍費を費やした。 それにもかかわらず、明朝と朝鮮には最後まで勝算が立たなかった。 しかし関白秀吉が死ぬと、ようやく戦乱は終わった。日本軍もみな島々の本拠へと撤退し、中国東南部にもようやく安眠できる日々が戻ってきた。 秀吉の政権は二代で滅びた。
明朝が存続していた間、日本との交流を禁じる政策は非常に厳しかった。 民間では、子どもを叱るときでさえ「倭」と呼んで罵るほどであり、幼い子どもを黙らせるために「倭が来るぞ」と言うことさえあったという。
耳塚修営供養碑 みみづかしゅうえいくようひ引用終了
文禄元(1592)年から翌年にかけて,慶長2(1597)年から翌年にかけて,豊臣秀吉は配下の軍勢を朝鮮へ侵攻させた。これを文禄・慶長の役という。この侵略を韓国では壬辰丁酉倭乱といい,朝鮮は膨大な損害を被った。
日本軍は朝鮮の軍民の鼻を切り取り戦功の証明とした。この鼻は日本へ送られ,方広寺門前に鼻を埋め塚を造り,慶長2年9月28日に大法要が営まれた。この塚をはじめ鼻塚とよび,のちには耳塚と称した。江戸時代初めには塚の上に巨大な五輪塔が立てられた。
明治31(1898)年は豊臣秀吉の三百年忌にあたり,豊公三百年祭が行われた。その時に耳塚とその周囲が整備された。秀吉を顕彰し,改修事業の経緯を示すために建立されたのが耳塚修営供養碑である。その時造られた石柵は当時の著名俳優が寄進したもので,役者名が刻まれている。耳塚の歴史については琴秉洞『増補改訂 耳塚』(総和社1994年刊)に詳しい。国指定史跡「方広寺石塁および石塔」(昭和44年指定)のうち。
所在地 東山区正面通大和大路西入南側
位置座標 北緯34度59分29.5秒/東経135度46分13.4秒(世界測地系)
建立年 1898年
(以下略)
トウガラシは、1492年に新大陸を発見したコロンブスが、ペルーの「アヒ(aji)」を欧州に持ち帰り、それが世界に広まった。 韓国には、1592年の壬辰倭乱の時、日本経由で入ってきたというのが通説だった。コロンブスが持ってきた「アヒ」が日本を経て韓国や中国、インドに伝えられたというわけだ。 このような「日本伝来説」を最初に提起した人物は、歴史学者の崔南善(チェ・ナムソン)だった。 李盛雨(イ・ソンウ)元漢陽大学食品栄養学科教授も、1978年に「『芝峰類説』を見ると、『トウガラシは日本から来たので倭芥子という』と書かれている」として、崔南善と同じ説を唱えた。 その後「日本から入って来たので倭椒という」(『星湖僿説』)、「南蛮椒が壬辰倭乱の後、タバコと共に入って来た」(『五洲衍文長箋散稿』)などと記した文献が続々と示され、トウガラシは日本から伝えられたという日本伝来説が「通説」とされるようになった。