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人物で知る中国〜呂不韋
最新の更新2025年6月15日 最初の公開2025年6月15日
以下、https://www.asahiculture.com/asahiculture/asp-webapp/web/WWebKozaShosaiNyuryoku.do?kozaId=7911423より引用。閲覧日2025年6月15日
天下を統一して古代中国の戦国時代を終わらせたのは秦の始皇帝ですが、その始皇帝という男を作ったのは呂不韋でした。大商人だった呂不韋は「奇貨居くべし」の経営哲学で、秦王国の末端の不遇な王子(始皇帝の父親)に投資。この投資は大当たりでした。呂不韋は外国出身の商人でありながら秦王国の宰相となり、まだ少年だった始皇帝(当時はまだ秦王)をささえ富国強兵を進めました。呂不韋は、始皇帝の実父だったという説もあります。しかし始皇帝(当時はまだ秦王)は成長すると呂不韋をうとんじて罷免。失脚した呂不韋は追いつめられて自殺します。人間関係こそ最高の投資対象と考える中国人の人生哲学を体現した呂不韋の成功と破滅を、豊富な図版を使い、予備知識のないかたにもわかりやすく解説します。(講師・記)
2025年6月17日 火曜 15:30〜17:00 朝日カルチャーセンター千葉 教室・オンライン自由講座 見逃し配信あり
YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-lMmmGn31U2fhOf4MRV0ckx
○キーワード
- 士農工商
呂不韋は士ではなく政商の出身だったので、食客を集め、『呂氏春秋』を作った。
- 貨殖列伝 (かしょくれつでん)
司馬遷の『史記』貨殖列伝は、春秋時代の末から漢初に及ぶ富豪たちの列伝である。
cf.https://zh.wikisource.org/wiki/史記/卷129
貨殖列伝で挙げる、中国史上初の個人的な富豪は、范蠡(はんれい)であった。
范蠡は、越王(asahi20211014.html#01)のもとを辞去したあと、斉に行き名を鴟夷子皮(しいしひ)とあらため商人に転身して大成功したが、有名になりすぎたため再び移住して名をあらため陶朱公と名乗り、蓄財に成功した。
范蠡は、意識的に政治と距離を置いた民間の大商人として成功したケースである。
一方、孔子の弟子であった子貢は、范蠡の同時代人であり(ただし両者が会ったという記録はない)、「貨殖列伝」にも登場する。子貢は政商的な性格ももっていた。
呂不韋は政商であったが、『史記』の貨殖列伝ではなく、独立した列伝で取り上げられている。
- いわゆる「首相」「総理大臣」にあたる古代中国の呼称のランク付け。
宰相(さいしょう) < 丞相(じょうしょう) < 相国(しょうこく。呂不韋の時代の呼称は出土資料によると「相邦」)
○辞書の説明
『精選版 日本国語大辞典』より引用。引用開始。
りょ‐ふい ‥フヰ【呂不韋】
中国戦国末の商人で秦の宰相。趙の人質となっていた秦の荘襄王を庇護、のちにその擁立の功によって丞相となり、始皇帝に仲父と尊称されたが、密通事件に連座して失脚、自殺した。学者を優遇し、諸説を折衷して「呂氏春秋」を編纂。俗説では始皇帝の実父とされる。紀元前二三五年没。
引用終了
○ことわざや故事成語
- 奇貨居くべし(出典は『史記』呂不韋伝)
- 一字千金(出典は『史記』呂不韋伝)
- 剣を落として舟を刻む(出典は『呂氏春秋』)
- 弘演納肝(出典は『呂氏春秋』)
- 絶弦(出典は『呂氏春秋』)
- 掣肘(出典は『呂氏春秋』)
- 池魚(ちぎょ)の殃(わざわい)(出典は『呂氏春秋』)
○略歴
- 前3世紀前半、戦国時代末の韓の商業都市・陽翟(ようてき。現在の河南省許昌市禹州市一帯)で生まれる。
- 前250年代の半ばごろ、呂不韋は趙の都・邯鄲(かんたん)で、秦王の孫・子楚にあう。「奇貨居くべし」の故事。
- 前259年、嬴政(えいせい。後の始皇帝)が子楚と趙姫とのあいだの子として誕生。
- 前250年、子楚が即位して秦の荘襄王となる。
呂不韋は丞相、義母は華陽太后(楚の出身)、実母は夏太后(韓の出身)、妻の趙姫は王后、息子の政は太子となった。
- 前247年、荘襄王は在位3年で崩御。息子の嬴政(えいせい。後の始皇帝。)が13歳で継いだ。
呂不韋は仲父と呼ばれ、相国(当時の呼称は「相邦」。前漢以降は劉邦の諱をいんで「相国」)となった。
- 前238年、にせ者の宦官・嫪毐が秦王政に対して反乱を起こす。
- 前237年、呂不韋は相国を罷免され失脚。
- 前235年、自殺。
- 前221年、秦氏政が皇帝に即位。始皇帝となる。
○司馬遷『史記』巻二十五・呂不韋列伝より
- 呂不韋は韓の陽翟出身の大商人である。各地を渡り歩いて商売し、巨万の富を築いた。
- 秦の昭王の四十年(前267年)、太子が亡くなった。
四十二年、秦の昭王は太子が亡くなったため、二男の安国君(後の孝文王。前302-前250)を太子とした。
- 安国君に二十人あまりも息子がいた。彼は、自分が最も寵愛した華陽夫人を「正夫人」とした。しかし彼女には男子が生まれなかった。
- 安国君の息子のなかに、子楚(後の荘襄王。前281-前247)という名の男子がいた。
子楚の生母はの名は夏姫だったが、寵愛を受けなかった。子楚は、趙に人質に出された。秦は何度も趙を攻めた。趙は子楚をあまり礼遇しなかった。子楚は、秦王の多数の庶子の一人にすぎず、おまけに諸侯に人質に出された身で、車馬や金回りにも不自由していた。
- 呂不韋が邯鄲で商売をしていたとき、子楚の様子を見て同情し、
「この奇貨、居くべし(此奇貨可居)」
と言い、彼を訪問した。
「私なら、あなた様のご門を立派にしてさしあげることができます」
子楚は笑って
「まず、ご自分の門を立派にしてから、私の門を大きくしてください」
「実を申しますと、私の門が立派になるかどうかは、あなた様のご門しだいなのです」
子楚は呂不韋の言いたいことを悟った。二人は奥で座り、深く語り合った。
- 呂不韋は言った。
「あなた様のおじいさま、つまり秦王さまは老いました。お父君の安国君が太子におなりですね。漏れ聞くところによると、お父君は華陽夫人(?-前230)を寵愛され、その華陽夫人にはお子がないとのこと。お世継ぎを立てることができるのは、華陽夫人だけです。今、あなた様のご兄弟は二十人余りもいらっしゃる。失礼ながら、あなた様は、そのなかの中くらいの地位にあり、あまり愛されず、諸侯に人質に出されっぱなしです。もし、大王が薨去され、お父君が王となられた場合には、あなた様のご兄弟のあいだで後継者争いが起きるでしょう。あなた様は不利です。ずっと外国においでです。ご長兄をはじめ、あなた様のご兄弟は、朝も晩もずっとお父様の身近にいらっしゃる。太子の地位を争うのは、無理でしょうな」
- 子楚が「いかにも。では、どうしたら良いか」と言うと、
- 呂不韋は「あなた様はお金がない。客分として外国にいらっしゃる。これでは、親御様が喜ぶ品物をご実家に贈ることも、有力者と交遊を結ぶこともできないでしょう。私、呂不韋めは貧乏商人でございますが、あなた様の将来に賭けて、千金を投資いたします。私はあなた様のために西に赴き、安国君と華陽夫人に運動して、あなた様をお世継ぎにするよう働きかけます」
- 子楚は頓首(とんしゅ)して「あなたの計画が成功したら、秦国を分けて共有しましょう」と言った。
- 呂不韋は五百金を子楚に与え、交際費にさせた。さらに五百金で珍奇な品物を買い入れ、西の秦国に行った。人脈をたどってまず華陽夫人の姉に会い、彼女を通じて持参の品を華陽夫人に贈った。そのうえで華陽夫人にふきこんだ。
- 「子楚さまは賢いかたです。天下の諸侯の賓客と広く交際なさっています。自分はいつも夫人を天のようにお慕い申し上げている、と、太子さまとあなた様のことを思って、趙の都で泣いておられます」
華陽夫人は喜んだ。
- 呂不韋は、華陽夫人の姉の口からも、このように言わせた。
「容色で人に仕える者は、容色が衰えると寵愛も減る、と言います。あなたは太子にお仕えして、今はよいけれど、お子が生まれていません。ぜひ、まだ寵愛がさめぬうちに、太子のお子たちの中から賢くて心が良い人を選び、ご自分の養子になさいませ。夫が亡くなった後も、自分の養子が世継ぎとして王となれば、あなたの地位は安泰です。子楚さまが最適ですよ。賢いかたですが、あなたの夫のお子たちの中での序列は中くらいだし、ご生母も愛されてないので、自力で世継ぎになるのは絶望的です。どうです。あなたの力で、子楚さまを秦の世継ぎにしてさしあげてみては。さすれば、あなたの老後も安泰です」
華陽夫人は同意した。
- 夫人は、夫の安国君に泣きながら訴えた。
「私は今は幸せです。あなたに愛されておりますから。でも将来が不安です。わが子がいないからです。もしお許しを頂けるのなら、子楚さまを私の養子にお迎えしたい。そのうえで子楚さまをお世継ぎにしてくだされば、私も老後の心配をせずにすみます」
- 安国君は、寵愛する華陽夫人の懇願を聞き入れた。彼は、玉製の割符を刻んで夫人に与え、約束の証拠とした。安国君と華陽夫人は、呂不韋を子楚の傅(お守り役。後見人)とした。
子楚が太子の後継者、つまり次の次の秦国王の予定者となったことで、諸侯の子楚を見る目は一気に変わった。
- 呂不韋は、邯鄲の舞姫を身請けして囲っていた。舞姫は妊娠した。
ある日、子楚が呂不韋の家で酒酒をご馳走になった時、その舞姫を見て気にいり、
「譲ってもらえまいか」
と言った。呂不韋は腹を立てたが、すでに子楚に賭けて全財産を投資していることを思いだし、その舞姫を差し出した。彼女はすでに妊娠していることを隠し抜き、十二ヶ月後に政(後の始皇帝)を生んだ。子楚は、舞姫あがりのその女性を正夫人に立てた。
- 秦の昭王の五十年(前257年)、秦軍が趙に侵攻し、首都・邯鄲を包囲した。
趙は人質の子楚を殺すことにした。
呂不韋は六百斤もの黄金を監視の役人にばらまいて買収し、脱走に成功し、秦軍の陣地にたどりついた。こうして帰国することができたのである。
- 次に趙は子楚の妻子を殺そうとした。子楚の夫人は趙の豪家の娘だったので、母子ともに隠れおおせることができた。
- 秦の昭王の五十六年(前251年)、昭王が死去した。
太子の安国君が新たな秦王となった。華陽夫人は王后に、子楚は太子になった。
趙も、さすがに太子となった子楚の夫人と子を殺すのはまずいと考え、母子を秦に送り返した。
- 秦王は在位わずか一年で死去し、孝文王と諡(おくりな)された。太子の子楚が王となった。荘襄王がこれである。
荘襄王は、養母を華陽太后とし、実母を夏太后とした。
- 呂不韋の投資は大成功だった。彼は荘襄王の元年、秦の丞相となり、文信侯に封じられ、河南洛陽の十万戸を所領として与えられた。
- 荘襄王も短命で、即位三年で亡くなった。太子の政が秦王になった。呂不韋を尊んで相国とし、「仲父」(ちゅうほ。父に次ぐ人)と呼んだ。
- 秦王・政はまだ年少であった。政の太后は、もともと呂不韋に囲われた舞姫だったが、ひそかによりを戻して呂不韋と私通した。
呂不韋の権勢は召使を一万人かかえるほどになっていた。
- さて、当時、天下に名の通った有力者は、食客を抱えるのがトレンドだった。魏に信陵君、楚に春申君、趙に平原君、斉に孟嘗君がいた。彼らは、士に対してへりくだり、賓客を集めることを競い合った。
- 呂不韋は、秦は強大なのに食客集めという点で負けていることを恥じた。呂不韋もまた、士を招いて厚遇したので、抱える食客三千人にも至った。
- この時代、諸侯の国には弁士が多かった。荀子(じゅんし)こと荀卿の著書は天下に広まっていた。
呂不韋は、食客にそれぞれ自分が見聞したことを書かせ、編集して八覧・六論・十二紀など二十余万字からなる大著を作り、天地・万物・古今のことを網羅していると称し、書名を『呂氏春秋』とした。
完成した『呂氏春秋』は、秦の都・咸陽(かんよう)の市場の門に並べられた。千金を懸賞金としてこの書物の列の上に懸け、諸侯の国の遊士・賓客に向かって「一字でも増減できる人がいれば千金をさしあげよう」と豪語した。
- 子どもだった秦王政は、だんだん大人になった。それでも太后の淫乱はやまなかった。
呂不韋は、自分と太后の不倫が秦王にばれることを恐れて、密かに嫪毐(ろうあい)という男を見つけ出し、自分の舎人とした。(以下、原漢文「乃私求大陰人嫪毐以為舍人、時縦倡楽、使毐以其陰関桐輪而行」。一部、不訳)。嫪毐の存在を噂で聞きつけた太后は、果たして興味を持った。
- 呂不韋は、世間と秦王政の目をごまかすための偽装工作をした。
「嫪毐は、腐刑(去勢の刑)にあたる罪を犯した」
という告訴事件をでっちあげたうえで、呂不韋は太后に言った。
「嫪毐を腐刑の受刑者だと偽れば、おそばに仕えさせられます」
太后は、腐刑の役人に賄賂を渡し、腐刑の判決を偽造させ、嫪毐のひげや眉を抜いて宦者にしたてあげた。
- こうして太后は嫪毐を身近に置き、密かな関係を楽しんだ。
やがて太后は妊娠した。
太后は醜聞の発覚を恐れた。嘘の占いを行い、咸陽の宮殿を出て、少し離れた雍(よう)の地に住んだ。
嫪毐は太后にべったりと付きしたがい、厚い賞賜を受け、決済を全て任された。嫪毐の家の召使は数千人にのぼり、仕官を求めて嫪毐の舎人になった者は千余人もいた。
- 始皇の七年(前240年)、荘襄王の生母である夏太后が薨じた。孝文王の后である華陽太后は、孝文王と共に寿陵の地に合葬されていた。夏太后の子である荘襄王は止陽の地に葬られていた。それ故に、夏太后は別に単独で杜の東の地に葬られた。夏太后は生前「東にわが子を望み、西に吾が夫を望む。百年後には、近傍に一万戸の邑ができるはずです」と言っていた。
- 始皇の九年(前238年)、とうとう醜聞が露見した。告発者があらわれたのである。嫪毐は実は宦者ではなく、ずっと太后と秘密の関係にあること。すでに子どもが二人も生まれているが、事実を全て隠匿していること。太后と嫪毐は、秦王政が亡くなったら自分たちの隠し子を世継ぎにしよう、と申しあわせていること、などが告発された。
- 秦王政は役人に調査させた。相国の呂不韋がぐるになっていたこともわかった。
- 追いつめられた嫪毐は、太后の印璽を使って兵を集めて反乱を起こしたが、すぐに鎮圧され、殺された。
- 九月、嫪毐の三族は皆殺しになった。太后が生んだ二人の子も殺された。太后は雍に遷された。嫪毐の舎人は全員その家産を没収され、蜀(四川省)へ流された。
- 秦王政は、相国の呂不韋をも誅殺したいと思った。が、先代の王に尽くした功績は大きく、賓客・弁士で相国の弁護をする者が多かったので、法にかけて処刑することができなかった。
- 秦王は十年十月に、相国・呂不韋を罷免した。斉人の茅焦の意見をいれ、太后を雍から迎えて咸陽に復帰させた。そして文信侯に戻った呂不韋を都から河南へと赴かせた。
- 呂不韋は失脚後も、依然として危険人物だった。
一年たっても、文信侯の居所への道路では、謁見を請う諸侯の賓客や使者の往来が絶えなかった。
秦王は謀反を恐れて、文信王に次のように書き送った。
「あなたには、河南に封じられ十万戸の食邑を与えられるほどの功労があったのか。あなたには、仲父と呼んでもらえるほどの血のつながりがあるのか。自分の家属とともに蜀に移りなさい」
呂不韋は将来を悲観した。自分は今後、ますます権勢を剥がれ、最後は誅殺されるだろう。そう考えた彼は、酖毒を飲み自殺した。
秦王政は、呂不韋も嫪毐も死んだので、残りの者は赦免した。嫪毐の舎人で蜀に流された者は咸陽に復帰した。始皇の十九年(前228年)、太后が薨じた。帝太后と諡し、荘襄王の陵墓に合葬した。
○その他
- 始皇帝の本当の父親は呂不韋だったという俗説の真偽は不明。同じ『史記』でも始皇本紀には記載がない。
- 漢の呂后は呂不韋の同族とする説もあるが、真偽は不明。
- 3世紀、蜀漢の忠臣だった呂凱(りょ がい)は、呂不韋の子孫である。
蜀の地に流された呂不韋の一族は、前漢の武帝の治世に「不韋県」が置かれると呂氏はそこに移住し、中国西南部の異民族へのおさえの任を与えられていた。
- 大映の映画『秦・始皇帝』(1962年)では、秦王政(始皇帝)を勝新太郎が、生母の太后を山田五十鈴が、呂不韋を河津清三郎が演じた。
- 日本の人気漫画「キングダム」では、呂不韋は「【元相国】秦王の座をおびやかす最大勢力の長」として登場。https://youngjump.jp/kingdom/character/01shin/10.html
- 塚本青史氏の小説『バシレウス 呂不韋伝』(NHK出版、2019)など、呂不韋を主人公とした作品もいくつかある。
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