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人物で知る中国〜毛沢東
最新の更新2024年2月18日 最初の公開2024年2月18日
以下、https://www.asahiculture.com/asahiculture/asp-webapp/web/WWebKozaShosaiNyuryoku.do?kozaId=4622270より自己引用。
清末、湖南省の農家の三男に生まれた毛沢東(1893〜1976)は、21世紀の今も中国に絶大な影響を残す革命家です。1921年、中国共産党の創立に参加した毛は、農民運動と紅軍を指揮して蒋介石の国民党と抗争。日中戦争中は国共合作をして日本と戦い、戦後は国共内戦に勝利し1949年に中華人民共和国を建国。毛沢東は実務にうとく、中国の最高指導者になったあとは、大躍進の失敗や「文化大革命」の発動で中国を混乱におとしいれました。毛沢東と激動の時代を、豊富な図版を使って、予備知識のないかたにもわかりやすく解説します(講師・記)
参考ビデオ https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-lMGamCULXmo2E-B9OoK-N4
○ポイント、キーワード
- 屈辱の百年
- 「洋土之争」洋土の争い
- 刁民(ディアオミン。ちょうみん) 小ずるくて悪い民のこと。
魯迅(ろじん 1881−1936)の言葉。「暴君の統治下の臣民はたいてい暴君よりも暴力的である。暴君の暴政は、しばしば暴君統治下の臣民の暴力的欲求を満足させることができない」
原文 《暴君的臣民》“暴君治下的臣民,大抵比暴君更暴;暴君的暴政,时常还不能餍足暴君治下的臣民的欲望。”
- ポピュリズム populism
良い意味では、大衆のため既存のエリート主義に反対する公民主義。悪い意味では、衆愚政治や大衆迎合主義、暴民政治。
- 中国の「聖人」
古来、中国が乱世になると、庶民は救世主たる聖人が登場して、民たち全員を食べさせてくれることを願った、と司馬良太郎は指摘する。文革末期の中国を旅した司馬は、毛沢東の権力構造の基礎に共同幻想としての聖人待望論を見た(『長安から北京へ』)。
- 東方紅
文革中の、事実上の中国国歌。
1番の歌詞は「東方紅,太陽昇,中国出了個毛沢東。他為人民謀幸福,呼児咳呀,他是人民的大救星」。
意味は、東が赤くそまり、太陽が昇る。中国に毛沢東という人があらわれた。彼は人民のために幸福を図る。ああ、彼は人民の大いなる救いの星だ」
○辞書的な説明
- 『デジタル大辞泉』より引用。
[1893〜1976]中国の政治家・思想家。湖南省湘潭(しょうたん)県の人。
1921年、中国共産党の創立に参加。農民運動を指導し、朱徳らと工農紅軍を組織、
31年江西省瑞金に中華ソビエト共和国臨時政府を樹立して主席となったが、
34年から長征を行い陝西(せんせい)省延安に移動。日中戦争には国共合作し、抗日戦を指導して勝利。
戦後は蒋介石の国民党軍を破り、49年中華人民共和国を建国。国家主席・党中央委員会主席に就任して新中国の建設を指導した。
66年、文化大革命を起こすが、死後その誤りを指摘された。
著「新民主主義論」「連合政府論」「実践論」「矛盾論」など。マオ=ツォトン。
略年表
- 1893年、清末の光緒19年に、湖南の湘潭の中農の子に生れる。
若いころは日本の西郷隆盛も尊敬しており、17歳のとき、「改西郷隆盛詩贈父親」という七言絶句を書いて父親に見せた。
孩児立志出郷関
学不成名誓不還
埋骨何須桑梓地
人間無処不青山
大意は、私は志を立てて故郷を出ます。学問で名前をあげられるまで、決して故郷に戻らぬと誓います。私の骨を埋葬するのは、桑梓の地、つまり先祖代々の故郷である必要はありません。人の世は、どこだって、骨を埋めるにふさわしい青山なのですから。
参考 http://www5a.biglobe.ne.jp/~shici/maoshi21.htm
なお、毛沢東の「西郷隆盛の漢詩」という認識は誤りであった。
- 1911年、辛亥革命が起る>革命軍に参加した。
- 1912年、中華民国成立。
- 1913年、湖南省立第一師範学校に入学した。
この学校で、彼は、進歩的青年団体「新民学会」を組織した。
- 1917年、孫文を援助した宮崎滔天が毛沢東の故郷の湖南省で講演を行い、毛沢東も聴講した。この年、陳独秀が主宰する雑誌『新青年』に、湖南省立第一師範学校の学生だった毛沢東は処女論文「体育之研究」を発表。
- 1918年夏、湖南省立第一師範学校を卒業。
- 1919年の五・四運動期に、恩師の楊昌済とともに北京へ上京。楊昌済の推薦で、北京大学の図書館館長・李大サのもとで司書補として勤め、雑誌『新青年』に熱心に寄稿した。
なお、後に毛沢東から感情的な叱責を受ける広西省桂林出身の梁漱冥(1893-1989)は、1917年から1924年まで北京大学でインド哲学を教える教員であり、毛沢東と知り合っていた。
- 1919年、毛沢東は帰郷して長沙の初等中学校の歴史教師となった。
- 1920年、長沙師範学校付属小学校長になる。同年、楊昌済の娘で学友の楊開慧と結婚し、岸英・岸青・岸龍の男子3人をもうけた。なお楊開慧は1930年10月に蒋介石の国民党軍によって銃殺された。
- 1920年の夏ごろから、中国語の書物を通じてマルクス主義者となり、社会主義青年団の地方組織を作った。当時の中国語のマルクス主義の本の多くは、日本語訳からの重訳であったとも言われる。「共産主義」「社会主義」「党」などの用語の多くが日中共通語である理由は、ここにある。なお毛沢東は、近代アジアの政治指導者としては珍しく、外国語はできなかった。
- 1921年7月23日、毛沢東は、上海における中国共産党創立大会に湖南代表として出席した。
当時、世界各地の共産党は、モスクワのスターリンが支配するコミンテルンのもとにあった。
後年、毛沢東が死去したとき、彼の遺骸は中国の国旗ではなく中国共産党の党旗にくるまれたが、党旗はソ連の国旗とそっくりである理由はここにある。
- 1923年6月の三全大会で中央委員に選ばれた。
- 1924年、蒋介石の国民党との国共合作が成立。毛沢東は国民党中央委員候補に選出された。
- 1926年の国民党二全大会でも再選。広州の農民運動講習所所長となって、農民運動の組織化に努めた。 都市労働者ではなく、農民の組織化に携わったことは、のちの毛沢東の「農村で都市を包囲する」戦略に影響を与えた。
- 1927年4月12日、上海クーデターで国共分裂。国共合作は終わり、第一次国共内戦が始まる。毛沢東は党の会議で、
「鉄砲の中から政権が出る(槍杆子里面出政権)」
という武装闘争路線を主張し、秋収暴動を組織したが失敗し、江西省の井崗山にたてこもった。
- 1928年4月、毛沢東は、朱徳の部隊と合流して中国工農紅軍を組織し、政治委員となった。なお井崗山で、毛沢東は当時まだ楊開慧という妻が故郷にいたにもかかわらず、江西省出身の女性・賀子珍(1910-1984)と事実婚状態となり、1929年には長女をもうけた。
- 1931年 11月、江西省瑞金に中華ソビエト共和国臨時政府が樹立。毛沢東はその主席となった。
- 1934年 10月、国民党軍の圧迫を受けて、長征を開始。
- 1935年1月、移動途中の貴州省遵義で、党中央の指導権を掌握。
- 1931年、満洲事変。
- 1936年、紅軍は陝西省延安に到達。長征が終わる。毛沢東は朱徳にかわって軍権を掌握した。同年12月、西安事件が起きる。
- 1937年7月7日、日中戦争が勃発。第二次国共合作が成立。毛沢東はこのころ『実践論』『矛盾論』を執筆、中国独自の革命理論を発表した。
- 1938年には『持久戦論』を執筆。抗日戦争に勝利するための人民戦争論を主張した。 なおこの年、毛沢東は賀子珍と離婚し、上海の元女優・江青(1914-1991)と結婚した。
- 1942年からの整風運動で、毛沢東は延安でのライバルや反対派を粛清。1943年にはソ連留学組だった総書記の張聞天を排除して自らがその地位(事実上の党主席)に就任した。
- 1945年、第7回党大会で毛沢東思想を指導理念として党規約に加える。次いで、毛沢東は党の最高職である中央委員会主席に就任。その後、日中戦争終結。
- 1946年、国共内戦が始まる。
- 1949年 10月1日、中華人民共和国の建国。毛沢東は中央人民政府主席に選ばれた。
- 1950年、朝鮮戦争勃発。同年、毛沢東と楊開慧のあいだの長男・毛岸英は、彭徳懐のロシア語通訳として従軍中に米軍の爆撃を受けて戦死。
参考 スターリンの息子ヤーコフ・ジュガシヴィリ
ヒトラーの甥レオ・ルドルフ・ラウバル
- 1954年9月の第1回全国人民代表大会で憲法が制定され、毛沢東は共和国国家主席に選出された。
- 1956年、中国で百花斉放百家争鳴が始まる。
- 1957年、毛沢東は反右派闘争を発動。
- 1958年、毛沢東は「大躍進」運動を発動。
- 1959年4月27日、毛沢東は大躍進政策失敗の責任を取って国家主席の地位を劉少奇に譲ることにしたが、党中央委員会主席と中央軍事委員会主席の地位は手放さず、大躍進政策は続けられた。同年7月から8月にかけて、江西省廬山で開催された党中央政治局拡大会議(廬山会議)で、毛と同郷の彭徳懐元帥は大躍進政策の見直しを進言したが、毛沢東はヒストリックに拒絶して彭徳懐を失脚させた。結局、大躍進は餓死者数千万人という惨憺たる結果に終わった。
毛沢東は、神棚に祭り上げられはしごをとられた形で、実権を失った。
- 1962年10月、中印国境紛争が発生。同年、中ソ論争が発生。
- 1964年10月、中国が初の原爆実験に成功。
参考 同年公開の映画「007 ゴールドフィンガー」に中国製の「汚い原爆」が登場。
- 1965年11月、「四人組」のひとり姚文元が書いた記事「新編歴史劇『海瑞罷官』を評す」が上海の新聞『文匯報(ぶんわいほう)』に掲載され、文化大革命が始まった。
- 1966年、回族の高校生・張承志が「紅衛兵」という名称を発案。
- 毛沢東は、同年8月18日から11月26日にかけて全国から上京してきた紅衛兵延べ1000万人と北京の天安門広場で会見。
- 1968年から上山下郷運動が開始。
- 1969年3月、中ソ国境紛争(珍宝島事件)。
参考 テレビドラマ「お荷物小荷物・カムイ編」(主演 中山千夏)。
戸浦六宏演じる近松千春はマオイストで『毛沢東語録』を常に携帯。
口癖は「毛沢東いわく」
- 1971年9月13日、林彪事件。
- 1972年2月、米国のニクソン大統領が中国を訪問。
同年9月、日中国交正常化。
9月27日の夜、毛沢東は中南海の毛主席の書斎で、日本の田中角栄首相(当時)と会談。同席者は、
日本側は大平正芳外相、二階堂進官房長官
中国側は周恩来総理、姫鵬飛外相、廖承志中日友好協会会長、通訳・記録係の王效賢と林麗雹
であった。この会見のときの毛沢東の言葉、
「吵完架了吗? 总是要吵一些的。天下没有不吵架的嘛。」
(喧嘩はもうすみましたか。なにごとも、ちょっとの喧嘩は必要です。世の中に喧嘩をせずにすむことはありません)
は有名。参考記事 http://www.peoplechina.com.cn/maindoc/html/30year/teji.htm
- 1976年1月8日、周恩来死去。天安門事件発生。
毛沢東は文革の継続を望み、ケ小平の解任と華国鋒の総理就任を提案した。
- 1976年9月9日、死去。83歳。
同年11月、毛主席記念堂が着工。
- 1977年9月9日、毛主席記念堂が完成。
○その他
- 毛沢東は多くの女性との間に子をなしたとされるが、認知した子供は2男2女であった。期待していた長男の毛岸英は朝鮮戦争で戦死した。最もかわいがったのは、江青との間に生まれた次女の李訥(りとつ 1940年生まれ)であった。
妻 楊開慧との間に、
長男 毛岸英 -(1922年10月-1950年11月)
次男 毛岸青 -(1923年11月-2007年3月)
三男 毛岸竜 - 夭折
妻 賀子珍との間に、
長女 楊月花 -(1929年3月-)
四男 - 夭折
五男 毛岸紅 -(1932年11月-1971年12月)
次女 熊化芝 -(1935年2月-)
三女 李敏 -(1936年-)
六男 - 夭折
妻 江青との間に
四女 李訥 -(1936年-)
である。
- 毛新宇(もう しんう、1970年1月17日 - )毛沢東の、「毛」姓の唯一の孫。
毛沢東の二男である毛岸青と女性カメラマン邵華の一人息子。
2010年7月、40歳で人民解放軍の少将に昇格。
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