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人物で知る中国〜玄宗
最新の更新2023年10月28日 最初の公開2023年10月28日
以下、https://www.asahiculture.com/asahiculture/asp-webapp/web/WWebKozaShosaiNyuryoku.do?kozaId=1653818より自己引用。
唐の玄宗皇帝は、楊貴妃を寵愛し、歌舞音曲に通じた梨園の神さまとしても知られています。いっぽう政治家としての玄宗は、特定の臣下に権勢が集中しないパワーバランスを心がけました。玄宗は、貴族と科挙官僚と外戚を競わせたり、外国出身の阿倍仲麻呂や安禄山を重用しました。玄宗のパワーバランス政治は「安禄山の乱」で破綻し、唐は繁栄から戦乱へ暗転します。21世紀の現代にも多くの教訓がある玄宗の生涯を、豊富な図版を使って、予備知識のないかたにもわかりやすく解説します(講師・記)。
2023年10月31日 火曜 15:30〜17:00
参考動画
https://www.youtube.com/watch?v=7zTHxyX9HVc&list=PL6QLFvIY3e-mBxxo896jePk1aSx52Sjmf
玄宗が出てくる映画やドラマの例
★1955年の日本・香港合作映画『楊貴妃』(溝口健二監督)のキャストは、京マチ子:楊貴妃、森雅之:玄宗皇帝、山村聡:安禄山、小沢栄(小沢栄太郎):楊国忠、進藤英太郎:高力士、石黒達也:李林甫、他。
★2017年制作の日中合作映画『空海-KU-KAI- 美しき王妃の謎』には、阿倍仲麻呂(演・阿部寛 あべひろし)と玄宗、楊貴妃が登場。
★2017年に香港電視広播有限公司と企鵝影業が共同製作した宮廷時代劇『宮心計2深宮計』(上記のYouTube参照)は、若き日の李隆基(後の玄宗)が大活躍する。
○キーワード
- 見せかけの多民族国家・唐の8世紀の危機
- パワーゲーム・・・権力奪取競争
- カウンターパワー・・・counter power 対抗勢力
- 分割統治・・・英語:Divide and rule、ラテン語:Divide et impera.
- 相互牽制・・・check and balance
- ダイバーシティ・・・多様性 diversity
○ポイント
日本史の例。16世紀までは、公家権門、宗教権門、武家権門のパワーゲーム。17世紀は武家権門を中心とする相互牽制システム。
唐の時代の歴史。建国初期は「武川鎮軍閥」(ぶせんちんぐんばつ)もしくは「関隴集団」(かんろうしゅうだん)による門閥貴族が中心。
武則天は、新興の知識階層・科挙官僚を重用し、門閥貴族勢力に対抗した。
武則天の孫である玄宗皇帝は、治世の前半はダイバーシティと相互牽制でうまくいったが(開元の治)、後半は「分断」によって破綻した(安史の乱)。
近年の米国やEUが、21世紀初頭までダイバーシティで躍進したのに、近年はそれが一因となって国内の「分断」に苦しんでいるのと同様の構図。
〇カリスマのいろいろ
政治的カリスマ・・・軍事カリスマ、雄弁カリスマ、血縁カリスマ、等。
経済的カリスマ・・・起業カリスマ、慈善カリスマ、等。
文化的カリスマ・・・文芸カリスマ、人徳カリスマ、宗教カリスマ、等。
玄宗皇帝は第一級の趣味人だった。「梨園」(りえん)すなわち芝居や歌舞音曲のパトロンとして文芸カリスマではあったが、他のカリスマ性は意外と低く、権力者としては見かけより脆弱だった。
○玄宗朝のパワーゲームのプレイヤーたち
頂点に君臨する玄宗も、唐の皇室には血縁カリスマが無かったため、プレイヤーの1人にすぎなかった。
- 皇帝★玄宗皇帝…李隆基。武則天の孫。「大野(だいや)氏」という「胡姓」を持っていた隴西李氏は、漢民族化した鮮卑族、もしくは鮮卑化した漢民族と思われる。
- 門閥貴族★旧斉系の清河崔氏など山東貴族が最高、次が唐の皇室を含む関隴集団ら武川鎮軍閥系=鮮卑系貴族、その次が琅邪王氏など南朝で伝統を誇った北来貴族、その下が呉郡陸氏など江南系の南人貴族。
- 宗族★李林甫など。
- 科挙官僚★張九齢、顔真卿、張巡、等。
- 外戚★楊国忠(楊貴妃の族兄)
- 宦官★高力士(忠臣)
- 外国出身者★安禄山…父はソグド人、母は突厥(とっけつ。トルコ系)人。史思明…父は突厥人、母はソグド人。哥舒翰…父はホータン人、母は突厥人。阿倍仲麻呂・・・日本人。高仙芝…高句麗系。李光弼…契丹族。
- 節度使(軍閥)★外国出身者の安禄山など。
- 宗教★唐は道教を優遇したが、儒仏道の三教だけでなく「唐代三夷教(とうだいさんいきょう)」も保護。
キリスト教ネストリウス派(景教)、ゾロアスター教(祆教)、マニ教(明教)
○玄宗についての解説
★デジタル大辞泉の解説より引用。引用開始。
玄宗 げんそう [685〜762]中国、唐の第6代皇帝。在位712〜756。姓は李、名は隆基。諡号(しごう)は明皇帝。「開元の治」とよばれる太平の世を築いたが、晩年は楊貴妃(ようきひ)に溺れて安史の乱を招いた。
引用終了。https://kotobank.jp/word/玄宗-492564 2021年1月13日閲覧
★日本大百科全書(ニッポニカ)の解説より引用。引用開始。
中国、唐朝第6代皇帝(在位712〜756)。本名は李(り)隆基。明皇(めいこう)とも称せられる。第2代太宗の死後、皇后、外戚(がいせき)、皇親、寵臣(ちょうしん)など皇帝側近の権勢と政争のため、政情不安定の時代が続いた。
則天武后の周朝から唐朝が復活したのちも、中宗の皇后韋(い)氏一派が政権を握り、ついに帝を毒殺した。帝の甥(おい)にあたる臨淄(りんし)王隆基は音楽や書の妙手で、風采(ふうさい)の優れた貴公子であったが、
710年クーデターを敢行して韋氏一派を倒し、父の旦(たん)を即位させた(睿宗(えいそう))。同時に彼も皇太子となり、やがて父帝の譲りを受けて帝位についた。
翌年おばの太平公主の勢力を武力で一掃して、
ここに皇帝を唯一最高の権力と仰ぐ統一政治を回復した。713年に始まる開元(かいげん)時代(〜742)は、太宗の貞観の治(じょうがんのち)を手本とし、後世
開元の治と称せられる。
玄宗は、貞観時代の房玄齢(ぼうげんれい)・杜如晦(とじょかい)に比せられる名宰相姚崇(ようすう)・宋m(そうえい)を信任して政治に励み、奢侈(しゃし)を禁じ、
儒学を重んじ、密奏制度をやめ、
冗官(じょうかん)や偽濫僧(ぎらんそう)(国家非公認の僧)を整理するなど、前代の悪弊を除き、公正な政治の再建に努めた。玄宗が自ら『孝経』に注を施したことは有名である。
対外的にも、突厥(とっけつ)を圧服し、契丹(きったん)・奚(けい)両民族を帰順させるなど北辺の平和維持に成功、
経済・文化の発展と相まって輝かしい平和と繁栄の時代が現出した。
しかしその頂点は、時代の転換への道でもあった。開元後半期から次の天宝期(742〜756)にかけて、律令政治は法的に整備される一方、
官制・財政・兵制などあらゆる面で空洞化した。
玄宗自身の政治姿勢も崩れ、李林甫(りりんぽ)などの寵臣を宰相としてこれに政治をゆだね、高力士らの宦官(かんがん)を重用した。精神面でも、儒教的理念から離れて道教の放逸な世界に傾倒し、
公私の莫大(ばくだい)な費用の捻出(ねんしゅつ)のために民衆の収奪を事とする財務官僚を信任した。皇后王氏から武恵妃に心を移し、武氏の死後は息子の寿王から妃楊太真(ようたいしん)を奪って貴妃とした。
白楽天の「長恨歌(ちょうごんか)」が歌うように、楊貴妃との愛欲の世界の陰には帝国の危機が進行していた。
玄宗は貴妃の一族と称する楊国忠と、東北辺に胡漢(こかん)の傭兵(ようへい)の大軍団を擁する安禄山(あんろくざん)とを、いずれも信任した。
内外二つの権勢はついに激突して安史の大乱となり、
756年玄宗は長安を脱出、四川(しせん)に落ち延びた。その途中で楊貴妃を失い、皇太子(粛宗)に譲位して上皇となった。翌年、長安が奪回されて帰還したが、
粛宗の腹心李輔国(ほこく)のため高力士ら側近を引き離され、太極宮に閉じ込められ失意のうちに没した。
[谷川道雄]
『礪波護著「唐中期の政治と社会」(『岩波講座 世界歴史5 古代5』所収・1970・岩波書店)』
引用終了。https://kotobank.jp/word/玄宗-492564 2021年1月13日閲覧
○略年譜
- 685年、唐の第5代/第8代皇帝の睿宗(えいそう。武則天の息子。662-716)の三男として、洛陽で生まれる。姓は李、名は隆基。
- 690年、武則天が即位し、睿宗は廃位された(武周革命)。
- 705年、李驫が数え21歳のとき、武則天は失脚し、中宗(唐の第4代・第6代皇帝。武則天の息子)に禅譲するかたちで帝位を奪われ、唐が復活した。
- 707年-710年、景龍年間に、宦官の高力士(690−762)を側に置くようになった。高力士は、玄宗の生涯にわたる腹心となった。
- 710年、中宗は、妻である皇后の韋后と、娘の安楽公主によって毒殺された。
翌月、李隆基は伯父である中宗の仇をうつため、叔母(武則天の娘。665-713)である太平公主と協力してクーデターを起こし、韋皇后を一族もろとも誅殺したうえで、自分の父・睿宗を重祚(ちょうそ)させた。李隆基は皇太子となった。
- 712年、睿宗は、息子の李隆基に譲位して太上皇帝(上皇)となった。
皇帝となった李驫こと玄宗は、太平公主との対立が深まる。
- 713年、玄宗は300名余の兵をひきいて太平公主の一派を打倒した。太平公主は自殺させられたとも、終身禁固にされたとも言われる。
玄宗は元号を「開元」とあらため、「開元の治」が始まる。
祖母の武則天が抜擢した、姚崇と宋mのふたりの宰相が玄宗をささえた。
- 716年、上皇となっていた睿宗が死去。
- 726年、玄宗は、寵愛する武恵妃(恵妃は後宮の側室の位)を皇后にしようとしたが、彼女は武一族であるため臣下に反対され、とりやめた。
玄宗はしだいに、政治に倦み始めた。
- 737年、最愛の武恵妃が死去。
- 740年、玄宗は息子の寿王(李瑁。り ぼう。玄宗の第18子。720-775)の妃となっていた楊玉環(ようぎょくかん)を見いだし、自分の後宮にいれた。
これが楊貴妃である。
玄宗は、楊貴妃のいとこ、つまり外戚である楊国忠を政治家として取り立てた。
- 742年、唐の宗室である李林甫(り りんぽ。唐の初代皇帝となった李淵の祖父である李虎の五世孫。683-753)を右相とする。
李林甫は「口に蜜あり腹に剣あり」と言われた陰険で老獪な悪い「佞臣(ねいしん)」とされる。ただし、鑑真の日本渡航に協力するなどの面もあった。
李林甫は、唐の地方の国防をになう節度使が、軍功を建てて中央で宰相となることを防ぐために、節度使に、寒門(下層階級)や蕃将(異民族出身の武将)を抜擢するよう玄宗にすすめた。玄宗は同意し、節度使に安禄山・安思順・哥舒翰・高仙芝など蕃将が登用された。
- 743年、平盧節度使・左羽林大将軍の安禄山を長安に入朝させ、驃騎大将軍に任じた。
宗室の李林甫、外戚の楊国忠、外国出身の安禄山や阿倍仲麻呂など、多彩な出自をもつ人物どうしを相互牽制させた。
同年、鑑真(688-763)が日本への第1回目の渡海を図るが、失敗。
玄宗は、道教を信じていたため、日本に仏教だけが伝わることを喜ばず、鑑真の日本への渡航を禁じた。
- 744年、宮廷詩人として玄宗に仕えていた李白が、宦官の高力士の讒言によって、長安を離れた。李白は、洛陽で杜甫と会って意気投合した。
- 753年、遣唐大使の藤原清河らの帰国船が出発。藤原清河と阿倍仲麻呂の乗船は難破し、ベトナム北部に漂着。鑑真が乗った船は、かろうじて日本に到着した。
- 同じく753年、李林甫は病死。死後、楊国忠と安禄山は玄宗に李林甫を讒言したため、李林甫は死後、官職剥奪のうえ庶民に落とされ、子孫も閉門となった。
- 754年、天宝13年の唐の戸籍登録人口が「五千二百八十八萬四百八十八口」5288万488人となり、ピークに達する。
ただし、この数字は、前漢の末期、平帝の元始2年(後2年)の戸籍登録人口5959万4978人には及ばない。
- 755年、楊国忠が安禄山を玄宗に讒言した。
安禄山は危機感を覚え、反乱を起こした(「安史の乱」の始まり)。
安禄山の反乱軍により、長安は陥落。
玄宗は側近を連れて、蜀(現在の四川省)へ逃亡したが、その馬嵬駅(ばかいえき。中華人民共和国陝西省咸陽市興平市。「興平市」は、「咸陽市」の一部)で付き従う兵士らは、安禄山の反乱のもととなった楊国忠を殺したうえ、玄宗に、楊貴妃に死を賜うよう要求した。玄宗は兵士の要求をのみ、楊貴妃は死んだ。
- 756年、皇太子の李亨(粛宗)が、玄宗の同意を得ないまま即位を宣言。逃亡先の玄宗はこれを追認し、譲位して太上皇となった。彼の44年の在位は終わった。
- 757年、安禄山は、息子らに殺される。
この年の春、反乱軍の占領下の長安で軟禁生活を送っていた杜甫は、「国破れて山河あり、城春にして草木深し」云々の漢詩「春望」を詠む。
同年の暮れ、唐軍は、長安を回復する。
- 758年、日本の天平宝字2年、渤海国から帰国した小野田守が朝廷に「安史の乱」を報告。
- 760年、蜀の成都から長安に戻った玄宗は、玄宗の復位を恐れた宦官の李輔国らによって、太極宮の甘露殿で事実上幽閉され、軟禁生活を送る。
高力士は引き離されて、地方に流された。
- 762年、死去。
地方にいた高力士は玄宗の死を聞くと、慟哭して血を吐いて死んだ。
○その他
- 日本で歌舞伎などの伝統的な芸能界を「梨園」(りえん)と呼ぶのは、玄宗皇帝の梨園にちなむ。
玄宗は、昔の中国では、京劇など伝統芸能の守護神としてあがめられていた。
- 織田信長と玄宗の共通点
織田信長も、家臣団のダイバーシティと相互牽制によって前半は成功した。父の代から織田家に仕えている譜代の家臣と、明智光秀や羽柴秀吉のような新参の実力派の家臣を競わせ、それぞれに「方面軍」的な
権限を与えて勢力拡大に成功した。しかし、玄宗が新参の安禄山を節度使に取り立てて裏切られた(安史の乱9のと同様、信長も自分が取り立てて「方面軍」を委ねた光秀に殺された(本能寺の変)。
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