朝日カルチャーセンター 新宿教室 「漢字と元号・姓名・地名」
2018/10/22月曜 明治大学教授 加藤 徹
講座内容
漢字文化の視点から、日本の歴史と特徴を考えます。漢字は、言語を記録する記号ではなく、漢字それ自体が思想の体系を為していると言われます。
私たちの先祖は、漢字を「生産財としての教養」として活用し、日本を作ってきました。現代の日本人にとって身近な元号、姓名、地名を例として取り上げ、中国や朝鮮半島の状況と比較しつつ、漢字と日本人の歴史と未来を考えます。
世界の紀年法は、循環式(東洋の干支、マヤ暦の一部など)、無限式(西暦など)、有限式(元号など)に分かれます。「昭和」「平成」など有限紀年法の根底には、どんな発想があるのでしょう。
第一回 10/22「元号」
元号は、かつて東アジアで広く使われていた紀年法で、天子は領土だけではなく時間も支配する、という思想に基く。中国と陸続きだった朝鮮半島は中国の皇帝が決める元号を使うことを強制され、独自の元号を使えなかった。一方、島国であった日本は中国から属国扱いされることを拒否し、「大化」以来日本独自の元号を作って使ってきた。元号のコンセプトと歴史、現代における意味を考える。
考えてみよう「元号は右翼的か?」
世界の紀年法
〇無限式紀年法 紀元紀年法
〇有限式紀年法 在位紀年法、干支紀年法、元号紀年法
無限式紀年法は「歴史の開始」を重視。西暦や仏暦、皇紀(神武天皇即位紀元)など。元年の設定は、宗教的紀元、政治的紀元、天文学的紀元など。
有限式紀年法は更新と一新を重視。元年の設定は、君主の即位(中国の場合は即位の翌年)、機械的な循環方式(干支)、諸般の事情 (元号)など。
参考 薮内清『歴史はいつ始まったか―年代学入門』 中公新書、1980
「正朔」の思想
〇デジタル大辞泉の解説 せい‐さく【正×朔】
1 《「正」は年の初め、「朔」は月の初めの意》正月朔日。1月1日。元日。
2 暦のこと。
3 《古代中国で、天子が代わると暦を改めたところから》天子の統治。
〇デジタル大辞泉の解説 正朔(せいさく)を奉・ずる
天子の統治に服する。臣下となる。「誰か夷狄(いてき)の鼻息を仰ぎ渠(かれ)が―・ずるに忍びんや」〈染崎延房(そめざき のぶふさ)・近世紀聞〉
〇『礼記』大伝第十六「立権度量、考文章、改正朔、易服色、殊徽号、異器械、別衣服、此其所得与民変革者也。其不可得変革者則有矣。親親也、尊尊也、長長也、男女有別。此其不可得与民変革者也。」
【大意】新しい君主が天下を統治する際は、度量権衡の新しい基準を立て、新しい文物制度を考案し、暦を改め、礼服の色を変え、旗や幟の記号を更新し、器具をとりかえ、衣服を以前とは区別する。これは人民に対して変革してもよい事柄である。一方、変革することのできない事柄もある。親族と親しみ、目上を尊び、年長者を敬い、男女の別を守る。これらの普遍的な礼制は、人民に対して変革することができない事柄である。
中国の紀年法
古代から有限式紀年法。近代から無限式紀年法へ移行。
〇在位紀年法…越年称元法と当年称元法があった。前者は前の君主の死去ないし退位後の翌年を元年とするもの、後者は前の君主の死去ないし退位の年から元年とするもの。
Cf.『春秋』哀公十四年「十有四年、春、西狩獲麟。」
魯の哀公十四年=西暦紀元前481年
Cf. 『旧約聖書』エズラ書・冒頭「ペルシヤ王クロスの元年に当たり(下略)」
〇歳星紀年法・太歳紀年法…木星の周期、約十二年に基づく。天体観測の実測値を考慮。
◎元号紀年法…前漢の武帝が創始。後述。
〇干支紀年法…本来、六十干支は干支紀日法に使われるものだったが、後漢の時代から天体観測の実測値を考慮せず、六十干支を機械的に年次にあてはめるようになった。
〇生肖紀年法…十二支にあてた動物による紀年法で、干支紀年法の派生形。秦・漢時代から民間に定着して現在に至る。
〇孔子紀年…清末の康有為が提唱した孔子卒後紀年(孔子が死去した年を起点とする)と、梁啓超が提唱した孔子生後紀年があるが、どちらも広まらなかった。
〇黄帝紀元…清末に提唱され、中華民族の伝説の始祖・黄帝が即位したとされる年を起点とする。辛亥革命が起きた宣統3年(1911年)を黄紀4609年とした。
〇民国紀元…中華民国臨時大総統・孫文は、黄帝紀元4609年11月13日(1912年1月1日)を中華民国元年元旦として、黄紀を廃止した。
〇公元…中華人民共和国では西暦を「公暦」、西暦紀元を「公元」として採用した。
元号は前漢から
〇前史・・・治世の途中で「改元」した初例は、前漢の第五代皇帝・文帝(劉邦の息子) 文帝の治世の前半は、劉邦・呂后時代の元勲とのギクシャクした関係。後半から、文帝は自分の思い通りの統治ができるようになった。
文帝の十六年、「人主延寿」と彫られた玉杯が発見されたのを機に再び元年と称し、その後は「後元年」「後二年」・・・と称した。
第六代皇帝の景帝(「三国志」の劉備の先祖)は、治世の途中で二度改元した。「前×年」「中×年」「後×年」などと称した。
第七代皇帝・武帝は、治世の途中で何度も改元したのみならず、それぞれに固有の名称を与え、現代まで続く「元号」のシステムが定まった。
〇最初の元号「建元」(前140-前135)
前漢の第七代皇帝・武帝(在位、前141-前87)は、董仲舒の献策により儒学が国家教学となり、司馬遷が『史記』を書くなど、中国の「古典文化」が定まった時代だった。
暦についても「夏正」(「建寅の月」を正月とする太陰太陽暦)を採用した「太初暦」が作られた。現在の旧暦の基礎は、武帝の時代に定まった。
武帝の時代、即位の当初までさかのぼって、即位の年を「建」、瑞祥(ずいしょう。めでたいきざし)があらわれた年を「元」として改元を行うことにした。
武帝の時代の元号は結局「建元 •元光 • 元朔 • 元狩 • 元鼎 • 元封 • 太初 • 天漢 • 太始 • 征和 • 後元」であった。
〇武帝の時代、瑞祥と考えられていた宝鼎が発見され、これを機に「元鼎」という元号が決まった(元鼎元年=西暦紀元前116年)。そして過去に遡って、「建元」(即位の改元)、「元光」(天空に輝く彗星による改元)、元朔、元狩(瑞祥である一角獣を捕獲したことによる改元)などが定められた。
朝貢と冊封
〇大辞林 第三版の解説 ちょうこう【朝貢】
( 名 ) スル 外国の使いが来て、貢物をさし出すこと。来貢。 「 −船」
〇デジタル大辞泉の解説 さく‐ほう【冊封】
古く中国で、天子が臣下や諸侯に冊(さく)をもって爵位を授けたこと。漢代に始まる。
さっ‐ぽう【冊封】⇒さくほう(冊封)
朝貢国イコール冊封国ではないことに注意。
遣唐使は、日本側から見れば対等外交だったが、唐側から見れば朝貢だった。つまり、唐は日本を朝貢国と見なしていたが、唐は日本に対して冊封は行わなかった。
卑弥呼や「倭の五王」、琉球国王などを除けば、日本史上、中国の天子から正式に「日本国王」の冊封を受けたのは、南北朝時代の懐良(かねなが/かねよし)親王と、足利義満くらいである(豊臣秀吉は明から冊封を受けることを拒否)。
冊封国は、朝貢の使節を中国に送り、中国から「天使」「冊封使」を迎え、中国の正朔を奉ずる(中国の暦と元号を使う)義務があった。
日本側呼称「文禄・慶長の役」 日本の元号を使う。
中国側呼称「万暦朝鮮之役」 中国の元号「万暦」(1573-1620)を使う。
朝鮮側呼称「壬辰倭乱」 中国の冊封国であった李氏朝鮮(韓国では単に「朝鮮」と呼ぶ)は独自の元号を持たなかったため干支紀年法を使わざるを得ない。
日本の元号
〇飛鳥時代から元号を使用。ただし初期の元号は断続的で、現実社会への普及度も疑問が残る。
大化645-650 「乙巳の変」(蘇我入鹿の暗殺)と「大化の改新」。
白雉650-654 瑞祥とされる白い雉が朝廷に献上されたことから。孝徳天皇の崩御で終了。以後、32年間の空白。
白鳳?(白雉の別称説あり)
朱雀?(朱鳥の別称説あり)
朱鳥686 白雉の最後の年から32年ぶり。天武天皇の最後の年のみ。
(15年間の空白)
大宝701-704 対馬の金鉱から金を献上(後に対馬産の金ではないことが発覚)。
※大宝以降、日本の元号は途切れることなく今日まで続く。
〇日本の元号の種類
代始(だいはじめ)改元(即位改元)・・・大化、平成など
祥瑞改元・・・白雉、大宝など
災異改元・・・安永。「明和九年(めいわくねん)」=「迷惑年」の火事や風水害で安永に改元。
革命改元・・・六十干支の革令(甲子の年)・革運(戊辰の年)・革命(辛酉の年)にあたっての改元
〇当年改元と越年改元(踰年改元、次年改元)
即位改元
〇ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説 践祚 せんそ
天皇の位につくこと。古くは即位との別はなかったが,桓武天皇以後,両者を区別し,皇位の象徴である三種の神器を受継ぐことを践祚,皇位につくことを天下に布告することを即位といった。現行の『皇室典範』では,天皇が崩御後,即位の礼を行うと改め,践祚という言葉はなくなった。
〇即日改元と踰日改元
明治は「翌々年改元」。大正と昭和は即日改元。平成は諸般の事情で踰日改元。
〇孝明天皇 慶応2年12月25日(1867年1月30日)崩御。
慶応4年9月8日(1868年10月23日) 明治に改元。同年1月1日(1868年1月25日)に遡って「明治」を適用。
「一世一元の制」は、中国では明の洪武元年から、日本では明治元年から。ただし中国の「一世一元の制」は基本的に越年改元だが(即位後一ヶ月で死去した明の泰昌帝のケースを除く)、日本の「一世一元の制」は当年改元である。
〇明治天皇の崩御は、公式には1912年(明治45年)7月30日午前0時43分(実際は前日7月29日22時43分に崩御)
大正改元の詔書
「朕菲コヲ以テ大統ヲ承ケ祖宗ノ靈ニ誥ケテ萬機ノ政ヲ行フ茲ニ先帝ノ定制ニ遵ヒ明治四十五年七月三十日以後ヲ改メテ大正元年ト爲ス主者施行セヨ
御 名 御 璽
明治四十五年七月三十日」
明治天皇崩御の当日=明治45年7月30日は、この詔書が発効した時点で「大正元年7月30日」となった。
〇大正天皇 大正15年(1926)12月25日に崩御。即日、昭和に改元。
〇昭和天皇 昭和64年(1989) 1月7日に崩御。翌日1月8日、平成に改元。
〇日本の元号の長さ
第一位 昭和64年
第二位 明治45年
第三位 応永(1394-1427)35年
第四位 平成(予定) 平成31年4月30日に終了予定。 30年113日間(=1万1070日間)
第五位 延暦(782-806)25年
ちなみに、中国史上、最長の元号は康煕(1662-1722)61年で、次は乾隆(1736-1795)60年である。乾隆帝は、偉大なる祖父・康熙帝の治世61年を超えないために息子の嘉慶帝に譲位し太上皇となり、1799年に崩御した。
〇参考 世界の君主の在位年数の長さ
伝説ではもっと長い在年数を誇る君主も・・・
高句麗の長寿王(在位413-491)あしかけ79年。「好太王の碑」を作らせた人。
ルイ14世(1643-1715)あしかけ73年
エリザベス2世 1952年即位、在位中。現在67年目
昭和天皇 あしかけ64年。ただし、大正10年(1921)の「摂政宮」(せっしょうのみや)就任から起算するとあしかけ69年。
以上