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『論語』抄

学而(がくじ)第一より

 先生は言われた。「学んだことを実践の機会に復習する。喜ばしいことじゃないか。友が遠方から訪ねてくる。楽しいじゃないか。人が分かってくれなくても気にしない。いかにも君子(くんし)じゃないか」




 先生は言われた。「巧言令色(こうげんれいしょく)、すくないかな仁(じん)」




 子夏(しか)が言った。「賢者に対しては美女を好む熱意で接し、父母に対しては全力で親孝行し、主君に対しては身をささげて仕え、友人に対しては言ったことを必ず守り誠実に交際する。もしそんな人がいたら、たとえ彼自身が『学問はまだまだです』と言っても、私は絶対に彼のことを学問を積んだ人物として評価する」




 先生は言われた。「君子(くんし)は重くないと威厳が無い。学問を積み、頭が固くならない。忠(心の中の良心)と信(言葉を守る)を第一にして、自分より劣った者を友としてはならぬ。誤ちは、ぐずぐずせずに改めよ」




 先生は言われた。「人から理解されぬことを悩むな。人を理解していないことを悩め」




為政第二より

 先生は言われた。「政治の中心には道徳を置こう。そうすれば、たとえて言うと、不動の北極星の周囲を衆星が回るようにうまくゆく」




 先生は言われた。「民を導くのに政治をもってし、整えるのに刑罰をもってするなら、民は網の目をくぐって恥じることは無い。民を導くのに道徳をもってし、整えるのに礼儀をもってするなら、民は恥を知って正しくなる」




 先生は言われた。「私は十五歳で学問に志し、三十で自立し、四十で惑わず、五十で天命を知り、六十で人の言葉に耳を傾けられ、七十にいたって心の欲するままに行動しても限度を越えぬようになった」




 先生は言われた。「古きを温めて新しきを知る(温故知新)。それで教師になれる」




 先生は言われた。「勉強しても考えなければ、暗い。考えても勉強しなければ、危ない」




 先生は言われた。「異端(いたん)を専攻するのは害だけだ」




 先生は言われた。「子路(しろ)よ。『知る』とは何か教えてやろう。知っていることは知っているとし、知らないことは知らないこととする。これが『知る』ということだ」




 子張(しちょう)が就職のことを学ぼうとした。先生は言われた。「多くを聞いて疑わしきを削り、慎重にその残りだけを口にすれば、失敗は少なくなる。多くを見てあやふやなことを削り、慎重にその残りだけを行動すれば、後悔は少なくなる。言葉に失敗が少なく、行動に後悔が少なくなれば、就職は自然にできる」




 子張がたずねた。「十代先の未来は予測可能ですか」 先生は言われた。「殷(いん)は夏(か)の礼を受け継ぎ、損益した所は分かっている。周は殷の礼を受け継ぎ、損益した所は分かっている。もし現在の周のあとを継ぐ王朝があらわれたとしても、百世代さきの未来も予測可能である」




里仁第四より

 先生は言われた。「朝、道(みち)を聞けたら、夕方に死んでもよいのに」




 先生は言われた。「父母が生きているときは、遠くに旅をしない。旅をしても方正でなければならない」




 先生は言われた。「父母の年齢を常に思い出せ。長寿を喜ぶと同時に、老い先を心配するために」




 先生は言われた。「君子は、言葉は朴訥(ぼくとつ)で行動は敏捷(びんしょう)でありたいと望むものだ」




 先生は言われた。「徳のある人は孤独ではない。きっと仲間ができる(徳は孤ならず、必ず隣あり)」




公冶長(こうやちょう)第五より

 先生は言われた。「道が行われぬ。筏(いかだ)に乗って海に浮かぶとしたら、私についてくる者は、まあ子路だろうね」 子路は聞いて喜んだ。先生は言われた。「子路よ。おまえの勇気は私以上だが、さて、筏の材木はどうする」




 先生は言われた。「人口十戸(じゅっこ)の村でも、私ていどに忠信(誠実で信義を守る)の人物は必ず一人くらいいるだろう。ただ、私ほど学問が好きではないだけだ」




雍也(ようや)第六より

 先生は言われた。「祝ダ(しゅくだ)の話術を持たず、宋朝(そうちょう)の男まえの顔だちしか持っていない。そんな人がいたら、難しいね、今の時勢を無事に乗り切るのは」




 先生は言われた。「知る者は好む者に及ばない。好む者は楽しむ者に及ばない」


 ハン遅が知について問うた。先生は言われた。「民の義を務め、鬼神(きじん)を敬して遠ざける。それが知と言える」 仁(じん)について問うと、先生は言われた。「仁者は率先して困難にあたり、収穫は後まわしにする。それが仁と言える」




 先生は言われた。「君子(くんし)は、本を読んで博学な知識を積み、『礼』によって約する(学問のダイエットを行う)。道にそむかないでおれまいね」




 先生が衛(えい)の霊公の夫人・南子(なんし)にあわれた。子路は面白くなかった。先生は誓って言われた。「もし私があやまちをしていたら、天罰がくだる、天罰がくだる」




述而第七より


 先生は言われた。「述べて作らず。信じていにしえを好む。われながら、老ホウに匹敵するものと自負している」




 先生は言われた。「甚だしきかな、わたしの衰えは。久しきかな、わたしが夢で周公旦(しゅうこうたん)に会わなくなってから」




 先生は言われた。「鬱憤(うっぷん)をいだく学生でなければ啓発(けいはつ)できない。言いたいことが言えず口をウズウズさせている学生でなければ啓発できない。教師が一隅(いちぐう)を挙げると三隅をもって反論してくるような積極的な学生でなければ、続けては教えない」


 先生は斉(せい)の国で詔(しょう)の音楽を三カ月聞かれて、肉のうまさも忘れられた(三月=さんげつ、肉の味を忘る)。「思いもよらなかった、音楽というものがこれほどだったとは」




 先生は怪・力・乱・神の話題は口にされなかった。




泰伯(たいはく)第八より


 先生は言われた。「『詩』に興(おこ)り、『礼』に立ち、楽(がく)に成る」




子罕(しかん)第九より


 先生は東の未開人の国に引っ越そうとなされた。ある人が言った。「むさくるしいでしょうね」 先生は言われた。「君子がそこに住めば、何のむさくるしいことがあろうか」




 先生は川のほとりで言われた。「逝(ゆ)くものはかくのごときか。昼も夜も休まぬ」




 先生は言われた。「美女を好むほどの熱意で道徳を好む人を、わたしはいまだ見たことがない」




 先生は言われた。「後生(こうせい)畏(おそ)るべし(若者を軽く見てはならない)。未来の世代が今の世代に及ばないなどと、分かるはずがない。反対に、四十、五十の歳になっても世に名を知られぬ者は、これまた恐れるに足りないものだ」




 先生は言われた。「三軍の帥(すい)を奪うことはできる。しかし、一人の男の志を奪うことはできない」




 先生は言われた。「歳寒くして、しかるのちに松柏(しょうはく)のしぼむに後(おく)ることを知る」




 先生は言われた。「知者は惑わず、仁者は憂えず、勇者はおそれず」




 「ニワザクラの花びらがヒラヒラと翻(ひるがえ)る。君のことが好きだ。でも、家が遠すぎる」という恋歌に対して、先生は言われた。「本当の『恋』とは言えぬ。互いの距離を口実にするとは」




郷党(きょうとう)第十より


 厩(うまや)が焼けた。先生は朝廷から下がってくると、言われた。「怪我人(けがにん)は?」 馬は問われなかった。




先進第十一より


 子路が、鬼神に仕える方法をたずねた。先生は言われた。「いまだ人に仕えることができぬのに、どうして鬼神に仕えることができよう」「あえて死についてお尋ねします」「いまだ生のことも分からぬのに、どうして死のことがわかろう」




顔淵(がんえん)第十二より


 司馬牛が悲しんで言った。「人にはみな兄弟がいるのに、私にはいない」 子夏が言った。「ぼくはこう聞いている。『死生、命(めい)あり、富貴、天にあり』と。君子が謙遜で礼を守るならば、四海の内はみな兄弟である。君子はどうして兄弟がないことを悲しんだりしようか」




 子貢(しこう)が政治の極意を質問した。先生は言われた。「食を足し兵を足し、民を『信』にする」 子貢は言った。「もし已(や)むを得ずこの三者のうちの一つを取り去るとしたら、どれを取りましょうか」「兵を取り去る」「もし已むを得ずこの二者のうちの一つを取り去るとしたら、どちらを取りましょうか」「食を取り去る。いにしえより皆、死あり。だが民は信が無ければ立てない」




子路第十三より


 先生が衛(えい)の国に行かれたとき、冉有(ぜんゆう)が御者(ぎょしゃ)であった。先生は言われた。「人口が多いね」 冉有が言った。「すでに人口が多いので、このあと、さらに何を加えましょう」「富ませよう」「富ませたら、次は何を加えましょう」「教えよう」




 葉公(しょうこう)が孔子にたずねた。「わが村に直躬(ちょっきゅう)という者がおります。直躬の父親は羊を盗みましたが、息子の直躬は父を告発しました」 孔子は言われた。「わが村の正直者は傾向が違います。父は子のために隠し、子は父のために隠します。正直さはその態度の中にあります」




 先生は言われた。「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」




 先生は言われた。「剛毅木訥(ごうきぼくとつ)、仁にちかし(質実剛健、素朴で口べたに人は、仁に近い)」




 先生は言われた。「善人が民を七年間教育すれば、戦争に行かせることもできる」




 先生は言われた。「民を教育していないのに戦争する。これを捨てると言う」




憲問第十四より


 先生は言われた。「いにしえの学ぶ者は己(おのれ)のためにし、いまの学ぶ者は人のためにす」





 ある人が言った。「徳をもって怨みに報いるというのは、どうでしょうか」 先生は言われた。「それなら、徳には何をもって報いるのか。直(ちょく)をもって怨みに報い、徳をもって徳に報いよ」




衛霊公(えいれいこう)第十五より


 衛の霊公が戦陣について質問した。先生は答えて言われた。「儀式の器の並べ方は昔きいたことがありますが、軍旅のことは学んだことがありません」 翌日、衛の国を立ち去られた。




 先生は言われた。「人として遠き慮(おもんばか)りなければ、必ず近い憂いあり」




 先生は言われた。「やんぬるかな。私はいまだかつて、美人を好むように徳を好む人を見たことがない」




 先生は言われた。「君子は世を終えて名が称されないことを憎む」




 先生は言われた。「君子は、言葉が立派だからという理由でその人を抜擢することはない。その人が悪いという理由でその言葉までを廃することはない」




 先生は言われた。「あやまちを改めない。これを、あやまちと言う」




 先生は言われた。「私はかって終日食事をせず、終夜ねむらずに、瞑想(めいそう)に耽(ふけ)ったことがある。無駄だった。学ぶことが一番だ」




 先生は言われた。「仁に当たっては、師にも譲らず」




 先生は言われた。「君子に三戒あり。若年のときは血気いまだ定まらず、性欲を戒めよ。壮年になると血気まさに盛ん、闘争心を戒めよ。老年になると血気は衰える、欲を戒めよ」




 先生は言われた。「生まれながら知る者は上。学んで知る者は次。困(こん)しつつ学ぶ者はその次。困しつつ学ばぬ者は、民のなかでも下(げ)だ」




陽貨第十七より


 先生は言われた。「人の本性は互いに近いが、後天的学習は互いに遠い」




 先生は言われた。「ただ上知の者と下愚の者だけは順位が変わらない」




 先生は言われた。「田舎の善人は、徳の賊である」




 先生は言われた。「道で聞いたことをそのまま道で喋る(道聴途説=どうちょうとせつ)のは、徳を捨てるようなものだ」




 先生は言われた。「飽食して日を終え、心を用いることも無いのは、つらい。ゲームというものがあるではないか。ゲームをして遊ぶ方が、何もしないよりはまだましだ」




 先生は言われた。「ただ女子と小人(しょうじん)だけは養いがたい。近づければ不遜になり、遠ざけると怨む」




 先生は言われた。「年四十にして人に憎まれる者は、まあおしまいだ」


子張第十九より


 子貢は言った。「暴君というレッテルを貼られてしまった紂王(ちゅうおう)の不善は、実はそれほど甚だしいわけではなかった。こういう訳で君子は下流にいることを憎む。天下の悪事がみな帰(き)せられてしまうからだ」




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