1999.2
覇王別姫(はおうべっき)Ba-wang-bie-ji

 これからご覧いただくのは、覇王別姫、英雄・項羽(こう・う)とその妃・虞美人(ぐびじん)との別れ、という悲劇です。
 物語の舞台は、今から二千二百年まえの中国。秦(しん)の始皇帝が死んだあと、天下をねらう英雄があちこちで立ち上がり、壮絶な戦いを繰り広げました。そのうち最後まで勝ち残ったのは、後に四百年にわたる漢王朝の初代皇帝となる劉邦(りゅう・ほう)と、若くして天下に覇をとなえた楚(そ)の項羽の二人でした。
 項羽は戦えば必ず勝つ勇敢な豪傑でした。一方、相手の劉邦は、戦争には弱いのですが、年をとっているだけに政治的なかけひきが得意でした。項羽は百戦百勝でしたが、いつの間にか劉邦に追いつめられてしまいます。項羽は巻き返しを図り、軍隊を連れて故郷の楚の国を目指しますが、その途中、劉邦の軍隊に包囲されてしまいます。いわゆる「四面楚歌」(しめんそか)の名場面です。
 もはやこれまで、と、運命をさとった虞美人は、夫の足手まといにならないよう、みずからの命を絶つのでした。
 この「覇王別姫」は、もともと、有名な京劇俳優・梅蘭芳(メイ・ランファン)のために書き下ろされた芝居です。陳凱歌(チェン・カイコー)監督の映画「覇王別姫、さらばわが愛」の世界的ヒットも、まだ記憶に新しいところです。
 ちなみに、日本の夏目漱石の小説に『虞美人草』(ぐびじんそう)という長編小説がありますが、この「虞美人草」とはヒナゲシの花のことです。中国の伝説によると、虞美人が首を切って自殺したとき、地面に流れた血から生まれたのが、ヒナゲシの花でした。そのため、この花の前で楚の民謡を歌うと、歌にあわせて花が踊り出す、と、中国の伝説は伝えています。
 もとより迷信でありますが、昔の人たちが虞美人に寄せた同情の気持ちをしのぶことができます。
 それでは、覇王別姫、どうぞお楽しみください。

(梅蘭芳団:30分=圧縮版)

 虞美人が登場します。いまは戦場にいるので、服装も、他の京劇に出てくるお姫様とちがっています。
 虞美人は歌います。
「大王さまにつきしたがい
戦場から戦場へ
遠征の年月を送ってきました
残念なことに、いまだ平和はおとずれず、天下の民はいくさで苦しんでいます」

 項羽が、戦場から馬に乗って帰ってきます。
 京劇には、いろいろな約束ごとがあります。項羽が手に、ふさのついたムチを持っているのは、歩いているのではなく馬に乗っているのだということを表わします。また、項羽が顔に白と黒の化粧をしているのは、心が単純ではっきりとした性格であることを表わします。

 項羽は歌います。
「この槍で敵の武将の首級をいくつもあげたが
いかんせん、多勢に無勢。敵の伏兵を防ぐ術(すべ)は無い
撤収し陣地に戻るよう、家来たちに下知(げち)をくだした」

 項羽は虞美人と一緒に、テントの中に入ります。
 京劇は舞台装置をあまり使いません。俳優が、しきいをまたぐしぐさをすることで、そこに建物があることを示します。
 項羽は虞美人に歌いかけます。
「苦戦つづきで、そなたにすっかり気苦労させてしまったな」
 項羽は言います。
「俺は今日も、戦場で、敵の武将を何人も殺してきた。しかし、殺しても殺しても、敵の包囲を破ることはできない。なぜだろうか。おそらく、これは天意だ。天が、われわれを滅ぼすつもりなのだ。俺の戦い方がまずいせいでは断じてない」

 虞美人は、項羽を元気づけるため酒宴を用意させます。

 項羽は酒をのみながら、勝利を得るにはどうしたらよいのか思い悩んでいることを歌います。
 虞美人は「今はたまたま運が悪いだけです。チャンスが来るのを待ちましょう」と歌い、項羽を励まします。

 項羽は思いあまって立ち上がり、舞いを舞います。
「力 山を抜き 気 世をおおう
時は利あらずして 騅ゆかず
騅のゆかざるは いかんとすべきも
虞や虞や なんじをいかんせん」
 項羽が実際に歌った、と、伝えられる有名な詩です。項羽は自分のことより、愛する虞美人の行く末が心配でならない、と、その気持ちを歌ったのでした。

 虞美人は剣舞(けんまい)をおどり、項羽をなぐさめることにします。


(虞美人は舞台の袖にひっこみます。虞美人を演ずる俳優は、剣の舞いを踊る衣装に着替えるため、少し時間がかかります。ひとり舞台のうえに残った項羽を演ずる俳優は、虞美人の着替えのあいだ、ずっと待っています。この間、項羽がどんな演技をすればよいのか、脚本には何も書いてありません。こういう、せりふもト書きもないところで、どれほどの演技ができるか、俳優の技量が問われるところです)

 虞美人は歌います。
「どうか、お酒と歌で心をおなぐさめください。
すべてことのはじまりは、あの暴君、秦の始皇帝。
彼が非道な政治をおこなったばかりに、
天下は麻のごとく乱れ、戦乱の世になりました。
英雄たちの勝ち負けも、栄光も滅亡も、悠久の歴史から見ればほんの一瞬にすぎません。
どうか今は、勝ち負けのことをお忘れになって、うたげをお楽しみくださいますよう」

 虞美人は、二本の剣を見事にあつかい、舞います。
 項羽は一瞬、自分の過酷な状況を忘れることができました。

 突然、家来が飛び込んできて報告します。
「周囲の敵が一斉に攻め込んで参りました」
 別の家来が飛び込んできて報告します。
「味方の兵隊は総崩れになり、武器を捨ててどんどん逃げ出しております」

 項羽は虞美人に、血路を開いて一緒に脱出するよう言います。
 しかし虞美人は、今となっては、項羽がひとりで脱出するのが精一杯、自分は足手まといになりたくないので、どうか自殺することをお許しください、と、項羽に頼みます。

 項羽は虞美人の自殺を許しません。
 虞美人は、自分の決意を歌います。

 虞美人は、項羽が自殺を許してくれないので、彼をだますことにします。
 虞美人は「テントの外に敵兵が攻めてきました」とウソをつきます。
 項羽は、テントの外に様子を見にゆこうと、背をむけました。
 その一瞬のすきに、虞美人は項羽の腰から刀をこっそり抜き取って、首を切って自殺します。

 項羽があわてて振りかえると、すでに虞美人は、命を絶っていました。

(完)


(その2)

 虞美人が登場します。いまは戦場にいるので、服装も、他の京劇に出てくるお姫様とちがっています。
 虞美人は歌います。
「大王さまにつきしたがい
戦場から戦場へ
遠征の年月を送ってきました
残念なことに、いまだ平和はおとずれず、天下の民はいくさで苦しんでいます」

 項羽が、戦場から馬に乗って帰ってきます。
 京劇には、いろいろな約束ごとがあります。項羽が手に、ふさのついたムチを持っているのは、歩いているのではなく馬に乗っているのだということを表わします。また、項羽が顔に白と黒の化粧をしているのは、心が単純ではっきりとした性格であることを表わします。

 項羽は歌います。
「この槍で敵の武将の首級をいくつもあげたが
いかんせん、多勢に無勢。敵の伏兵を防ぐ術(すべ)は無い
撤収し陣地に戻るよう、家来たちに下知(げち)をくだした」

 項羽は虞美人と一緒に、テントの中に入ります。
 京劇は舞台装置をあまり使いません。俳優が、しきいをまたぐしぐさをすることで、そこに建物があることを示します。
 項羽は虞美人に歌いかけます。
「苦戦つづきで、そなたにすっかり気苦労させてしまったな」
 項羽は言います。
「俺は今日も、戦場で、敵の武将を何人も殺してきた。しかし、殺しても殺しても、敵の包囲を破ることはできない。なぜだろうか。おそらく、これは天意だ。天が、われわれを滅ぼすつもりなのだ。俺の戦い方がまずいせいでは断じてない」

 虞美人は、項羽を元気づけるため酒宴を用意させます。

 項羽は酒をのみながら、勝利を得るにはどうしたらよいのか思い悩んでいることを歌います。
 虞美人は「今はたまたま運が悪いだけです。チャンスが来るのを待ちましょう」と歌い、項羽を励まします。

 項羽は疲れてあくびをします。テントの奥に入って眠ることにします。
 虞美人はテントの外に出て、陣地の中を散歩することにします。


 夜空には冷たい月がかかっています。

 虞美人は歌います。
「大王さまは、テントの中で、やすらかにお休みになられました。
私は外に出て、秋の夜空のもとを散歩しましょう。
荒涼とした大地のうえを歩みながら、ふと、夜空を見上げると
いつしか雲も晴れて、明るく冷たい満月がかかっています」

 夜の陣地では、連日の戦闘で疲れ果てた兵隊が「つらいなあ」と嘆きの声をあげています。
 虞美人は、自然の夜空は美しいのに、地上はいまだ戦争で乱れていることを嘆き、また、国の民や兵隊が戦争のために大変に苦しんでいることを憤ります。

 陣地の外から、妙な歌声が聞こえてきました。

 見回りの兵隊のあいだに動揺が走ります。
「おい、今の歌声を聞いたか。あれは、自分たちを包囲している敵の軍隊が歌っているんだ。やつらはなぜ、俺たちの故郷の歌をうたっていやがるんだ」
「わかったぞ。敵は俺たちの先回りをして、もう楚(そ)の国を征服してしまったんだ。それで俺たちのふるさとの仲間が敵の軍隊の中に組み込まれて、歌わされているんだ」

   見回りの兵隊は、自分たちの行く末を心配します。大将の項羽は、毎日、酒を飲んでいるばかりで、たよりない。いっそ、みんなで項羽の軍隊を脱走して、ふるさとに逃げ帰ってしまおう、と、脱走を口にする者もあらわれました。

 虞美人は、ものかげから見回りの兵隊たちの会話を聞いていました。
 彼女は、自分の夫が兵隊たちから見放されたことを知りました。

 四方を包囲している敵の軍隊から、ふるさとの楚の国の歌が聞こえてきます。
 虞美人はその歌声を聞いて呆然とします。

 虞美人は、テントの中にもどります。そして、眠っている項羽を起こします。

 ふたりはテントの外に出て、耳をすませます。

 敵陣から、ふるさとの楚の国の歌声が聞こえてきます。
 項羽は、敵が自分たちの先回りをして、ふるさとを征服してしまったのではないか、と、あせります。
 項羽は家来に、敵の様子をさぐってくるよう命令します。

 項羽は、もはや自分が勝利する可能性が消えてしまったことを悟ります。
 虞美人は、項羽をはげまします。
「まだ、ふるさとが敵の手に落ちたと決まった訳ではありません。たしかに今は、敵に圧倒されていますが、ふるさとに帰って軍隊を立て直せば、逆転勝利の可能性はまだ残っています」と。

 このとき劉邦はまだ楚の国を征服していませんでした。楚の歌声は、項羽をだまして心理的に追いつめるための心理作戦でした。まっすぐな性格の項羽は、まんまとひっかかりました。

 項羽の愛馬で、「騅」(すい)という名の馬がいななく声が聞こえてきます(楽隊の人がチャルメラを吹いて馬の声を表わします)。利口な馬は、主人の気持ちを悟って、悲しげにいななきます。

 すっかり意気消沈してしまった項羽をはげますため、虞美人は、酒盛りをすすめます。

 項羽は思いあまって立ち上がり、舞いを舞います。
「力 山を抜き 気 世をおおう
時は利あらずして 騅ゆかず
騅のゆかざるは いかんとすべきも
虞や虞や なんじをいかんせん」
 項羽が実際に歌った、と、伝えられる有名な詩です。項羽は自分のことより、愛する虞美人の行く末が心配でならない、と、その気持ちを歌ったのでした。

 虞美人は剣舞(けんまい)をおどり、項羽をなぐさめることにします。


(虞美人は舞台の袖にひっこみます。虞美人を演ずる俳優は、剣の舞いを踊る衣装に着替えるため、少し時間がかかります。ひとり舞台のうえに残った項羽を演ずる俳優は、虞美人の着替えのあいだ、ずっと待っています。この間、項羽がどんな演技をすればよいのか、脚本には何も書いてありません。こういう、せりふもト書きもないところで、どれほどの演技ができるか、俳優の技量が問われるところです)

 虞美人は歌います。
「どうか、お酒と歌で心をおなぐさめください。
すべてことのはじまりは、あの暴君、秦の始皇帝。
彼が非道な政治をおこなったばかりに、
天下は麻のごとく乱れ、戦乱の世になりました。
英雄たちの勝ち負けも、栄光も滅亡も、悠久の歴史から見ればほんの一瞬にすぎません。
どうか今は、勝ち負けのことをお忘れになって、うたげをお楽しみくださいますよう」

 虞美人は、二本の剣を見事にあつかい、舞います。
 項羽は一瞬、自分の過酷な状況を忘れることができました。

 突然、家来が飛び込んできて報告します。
「周囲の敵が一斉に攻め込んで参りました」
 別の家来が飛び込んできて報告します。
「味方の兵隊は総崩れになり、武器を捨ててどんどん逃げ出しております」

 項羽は虞美人に、血路を開いて一緒に脱出するよう言います。
 しかし虞美人は、今となっては、項羽がひとりで脱出するのが精一杯、自分は足手まといになりたくないので、どうか自殺することをお許しください、と、項羽に頼みます。

 項羽は虞美人の自殺を許しません。
 虞美人は、自分の決意を歌います。

 虞美人は、項羽が自殺を許してくれないので、彼をだますことにします。
 虞美人は「テントの外に敵兵が攻めてきました」とウソをつきます。
 項羽は、テントの外に様子を見にゆこうと、背をむけました。
 その一瞬のすきに、虞美人は項羽の腰から刀をこっそり抜き取って、首を切って自殺します。

 項羽があわてて振りかえると、すでに虞美人は、命を絶っていました。

(完)


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