京劇漫談「私と京劇」


広島大学総合科学部   加藤 徹
1993年9月20日執筆  97年5月20日アップロード  99年6月14日更新

京劇漫談(きょうげきまんだん)
掲載誌 : 「研究誌季刊中国」1993年冬季号,pp.44-53,1993年12月
内容 : 在日華僑の「票房」(京劇愛好者のサロン) を、学部生時代の筆者が「参与観察」した記録をエッセイ風にまとめたもの。「秘密寫眞舘」参照。


「京劇について書きなさい」
と言われたので、京劇について書く。
 しかし私の文章は、寄り道や前置きが多い悪文として、すこぶる悪評が定着している。もとより筆者として最善を尽くす覚悟であるが、ちゃんと京劇の話が書けるか、まったく自信が無い。
 読者のみなさんも応援してください。

 

ウ ー ロ ン 茶 と 中 国 語

 私は、この四月(1993年---97年5月追記)から国立H大学に就職させていただき、初級中国語を教えている。
 授業の最初、大学一年生の受講生たちに
「君は何ゆえに中国語を選択したか」
とアンケートした。
「アジアの言語を学びたかった」
「昔から中国に心ひかれていた」
というオーソドックスな回答が多かった反面
テレビのウーロン茶のCMの歌をカラオケで歌いたいから
「来年アジア大会がH市で開かれるから」
など、時局や流行を反映した回答も散見された。
 ウーロン茶の歌?
 昨今の大学では、アクセサリーやファッションの感覚で語学を選択する生徒が少なくない。バルセロナの年はスペイン語選択者が増えたし、ベルリンの壁崩壊の年はドイツ語選択者が増えた。
 だから
「テレビのウーロン茶のCMの歌をカラオケで歌いたい」
という動機も、驚くにあたらぬかもしれない。
 聞くところによると、大学近くのカラオケ・ボックスには、この「ウーロン茶のCMの歌」の中国語バージョンが置いてあるそうな。たぶん放課後には
「おれ、ウーロン茶のCMの歌を歌えるんだぞ!」
「キャーっ、ヤッくんステキっ!」
などという会話が繰り広げられていることだろう。
 が、今どき、学生の声は神の声。授業開始後、私は生徒の要望にこたえ、胡弓(こきゅう)を自分で弾きながら「ウーロン茶のCMの歌」を歌った。……
(念のため付言すると、H大学の学生は優秀である。今まで何回か中国語の試験を行ったが、学生がちゃんと勉強のかんどころを押さえているのは、さすがであると思う)。

 

 私 は 京 劇 が 好 き だ っ た

 まあ今から十年前、自分が大学一年生だったころの事を振り返ると、今の学生に向かって大きな事は言えない。わが身をふりかえれば、ぼくが大学で中国語を選択した理由も「京劇の歌を中国語で歌いたかったから」というものだった。
 一九八三年春、私は「T大中国語クラス」の一年生だった。
「へえー、国立T大の中国語クラス。じゃ、中国語は完璧ですねエ」
と今でもよくひやかされる。が、学生の実態はひどかった。
 例えば、中国人教官が
「現在要点名(シェン・ザイ・ヤオ・ディエン・ミン。今から出席をとります)」
と言うと、てっきり自分の名前を呼ばれたのだと思った学生Aが
「ハイ、来てます」
と答えた。彼の名前を中国語で読むと「チエン・ジン」で、全然違うのだが……。
 また別の学生Mは、いきなりあてられて
我去図書館
という中国文を
ガーキョートーショーカン
と読みくだし、中国人教官の目を点にさせた(もちろん通じるはずがない)。
 そんなわれわれ学生たちを教える教官こそ、さぞご苦労だったと思う。
 ちなみに、私たちのクラスの担任教官はI先生といい、私たちのクラスが一人の留年者も出さずに済んだのは、ひとえにこの先生の御人徳によるものとうわさされた。I先生は今は某日中友好協会の理事長をなさっているらしい。

 思わず回想にひたってしまった。
 なかなか京劇の話にならない。
 以下も漫談が続くが、その前に、京劇について、簡単に解説しておきたい。

 

京 劇 に つ い て の 基 礎 知 識

「京劇? ……ああ、そりゃーあの、ドラや胡弓がやかましく鳴り、ケバケバしい化粧と服装の役者がキイキイと高い声で、歌ったり飛び跳ねたりする芝居でしょ? 国立劇場で見たことあるよ」
 ま、そんなもんです。
 京劇とは、日本の歌舞伎にあたる中国の伝統的な芝居である。京劇の歴史は約二百年とされ、歌舞伎よりは新しい。
 日本では、京劇嫌いの魯迅(ろじん)先生や倉石武四郎(くらいしたけしろう)先生の影響で「京劇なんてブルジョアのお道楽さ」と思っている人が多い。が、本来の京劇は、庶民の視点から人間の哀歓を限りない愛情をこめて描いた、きわめて人間的な芝居であった。
 英語では「ペキン・オペラ」などと言う。北京が「北平」と改称されていた民国のころは「平劇」「国劇」と呼ばれていた。台湾では今でも「平劇」と呼ぶ。どの呼び方をするかで、その人の政治的立場がある程度わかる。
 また「京劇」という言葉でどんなイメージを抱くかで、その人の年代もわかる。
 五十代以上の読者なら「梅蘭芳(メイランファン)」という名優の名をまず思い出すだろう。おそらく彼は、日本人に原音で名前を記憶された最初の中国人である。梅蘭芳の舞台を見た芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)は、その『侏儒(しゅじゅ)の言葉』で京劇の文学的価値を熱っぽく語った。一方、京劇の商業主義を嫌っていた魯迅は、その雑文の中で何度も梅蘭芳をおちょくっている。
 四十代、三十代の読者ならまず「文化大革命」期の「革命的現代京劇」が思い浮かぶだろう。文革期の日本で発行された中国語教科書には、よく「紅灯記(こうとうき)」や「智取威虎山(ちしゅいこざん)」などの現代京劇の場面が採られていたものだ。また、当時の中国政府の政策で革命京劇の脚本やテープは盛んに海外に輸出されたので、現在でも日本の図書館や古書店で当時のものをときどき見かける。
 たぶん本誌の読者の多くは、京劇というと、まず革命的現代京劇が思い浮ぶのではないか。
 現在、中国で上演されている京劇のほとんどは古典的伝統演目である。文革当時の演目は、当時の苦い記憶のせいか、あまり上演されない。が、「紅灯記」など一部の演目は、強い郷愁とともに依然として中国人民の人気を得ている。
 以下、現代京劇の代表例として「紅灯記」について述べてみよう。

 

現 代 京 劇 「  灯 記 」 観 劇 記

 「紅灯記」は、日本占領下の満州で、中国共産党の指令で活躍するある労働者一家の英雄的行動を描いた現代京劇である(悪役で「鳩山」(はとやま)という日本軍人が出てくる。ぼくの宴会芸のレパートリーの一つにこの鳩山のセリフと歌のものまねがあり、この芸は特に中国人にうける)。
 一九九〇年冬、私は北京の人民劇場で「紅灯記」を見た。出演者は、「李玉和」役の役者が変わった以外、すべて文革当時の顔ぶれだった(「李玉和」役の役者は、文革後、四人組との関係が問題になって干されているらしい)。
 この日は文革後はじめての「紅灯記」の通し上演ということで、厳寒の夜にもかかわらず、劇場の門前には観衆が列をなした。またキップを買えなかった大衆が原価の十倍というプレミアムを払ってもダフ屋からキップを買おうとしていた。近年では稀有の現象である。
 普通、京劇の観客は年寄りが多いものだが、この「紅灯記」の場合は若者も少なくなかった。
 芝居の幕が上がってからの観衆の熱狂ぶりは、文革期もかくやと思うほどのものだった。
とにかく役者が何かセリフを言うたびに、拍手や絶叫が起こった。
 とくにドラマの後半、日本人に捕まった李玉和らが
「中国共産党万歳!」
と叫んで銃殺されるシーンでは、万雷の拍手が湧き起こり、私の隣に座っていた高校生くらいの若い中国人女性が
ううーっ、うわあああああっ!」
と絶叫して泣き出した。……
 芝居が終わったあと、友人の日本人女子留学生・Kは
「なんだか集団ヒステリーの渦の中に投げ込まれたような感じで、芝居を見るどころじゃなかったわ」
と、ゲンナリした様子で語った。

 九〇年当時、革命京劇の一部復活を「六四事件(1989年の天安門事件のこと。---97,5,20追記)以後、政治の風向きが変わったからだ」と観測する向きもあった。それもあろうが、九〇年の「紅灯記」の異常人気の最大の理由は、やはり「紅灯記」というドラマ自体の魅力に帰するものだと、私は考えたい。
 その証拠に、他の革命京劇の演目(具体名をあげるのは差し控える。私の京劇界の友人たちには当時の革命京劇の出演者が少なくない)は「紅灯記」ほどの人気を博していないのだ。
 どうやら六〇年代文化への郷愁という現象は日中共通らしい。
 九〇年代の日本でも「ウルトラマン」や「ウルトラセブン」など六〇年代のヒーローがブームになり、ウルトラマンや怪獣に関する大人向けの本が続々と出版されている。これには、当時の子供が現在、社会の中核層になりつつある、という理由もあろう。しかし最大の理由は「ウルトラマン」を作った人々が、子供向けの番組だったとはいえ決して手抜きをしなかったからである。全共闘運動とその挫折、ベトナム反戦、沖繩復帰問題、公害問題など六〇年代の時代のメッセージを、しっかりとドラマに織り込んでいたからである。
 九〇年代の中国で「紅灯記」など一部の革命京劇が異常な人気を博したのも、本質的には同じ理由によるのだろう。

 

胡 弓 と の 出 会 い

 話を十年前、私がT大一年生だったときに戻す。
 思えば、人間の縁とは不思議なものである。私はここで、私が京劇にのめり込む上で決定的影響を与えたT氏との出会いについて、話さねばならない。
 T氏は胡弓の名手だった。
 私が胡弓という弦楽器にひかれたのは、それが京劇の伴奏楽器だからである。

   余談になるが、人類の音楽史において、声楽・気鳴楽器から弦楽器へ、という進化は、世界共通のものだ。
 ヨーロッパでは、原始性を保存した中世の宗教音楽などは声楽やパイプオルガンなどが使われる。バイオリンやピアノなど弦鳴楽器が使われはじめるのは、より進化した近世の芸術音楽の段階以降である。
 アメリカでも、宗教性を残す一九世紀の黒人霊歌やジャズ(本来ジャズは黒人の葬送曲であった)では声楽と気鳴楽器が主役で、ギターやピアノが主伴奏楽器になるのは、より進化が進んだ二〇世紀のロック音楽の段階になってからである。 日本でも、宗教性を残す中世の能楽は、声楽と気鳴楽器が主役だった。三味線という弦楽器を主伴奏楽器とする歌舞伎の成立は、やっと近世に入ってからだった。
 だから中国演劇史における、気鳴楽器中心の崑劇から弦楽器中心の京劇へ、という推移は、人類史的に見て必然の変化だった。そして金属的な打楽器とハイテンションの弦楽器の伴奏にあわせユニ・セクシャルなボーカルが歌う、という点で、京劇音楽は、本質的に一種の「ハード・ロック」なのである。

 話をT氏との出会いに戻そう。
 T大駒場(こまば)キャンパスでは、夕暮れどき、どこからともなく美しい胡弓の音色が聞こえてくることがあった。
「わたしはあの音色を聞いて、東洋の情熱を感じましたね」と、その音色を耳にした同級生・Hは私に言った。
「いったい誰がひいてるんだろう」
「さあ……ぼくも遠くから音色を聞いただけだから」
 そのとき、私はなぜか「いつかこの胡弓の音の主と出会うぞ」という予感めいたものを感じた。
 その後、ある雨の日の放課後。キャンパスの一角で、先輩のGが、中国みやげの胡弓を私たち後輩数名に見せびらかしていた。
「この楽器、ヘビの皮が張ってあるんだよ」
「キャーッ、へびっ!」
「弦が二本しか無いけど、どうやって弾くんですか」
「うん、それは買った当人であるオレも知らない」
 と、突然、建物のかげから
「わっ、なんでそんなもの持ってるの」
と三十歳くらいの、見知らぬ男が声をかけてきた。男からは、すえた酒のにおいがほんのり漂っていた。
「いやー、これ、中国旅行のみやげで買った胡弓なんですけど、弾き方がわからなくて」
「それじゃ、ぼくがちょっと弾いてあげよう」
 男は、私の方を見て言った。
「胡弓を弾くのには椅子がいるんだけど、君、ちょっと椅子になってくれ」
 私はコンクリートの床の上にうずくまった。私が指名されたのは、私がふとっていて、クッションが良さそうだったからだろう。
 男は私の背中の上に尻をおろすと、人垣の中で、胡弓をみごとに弾きはじめた。……

 

大 学 か ら 中 華 料 理 屋 へ

 男の名はTといった。T氏は駒場寮(こまばりょう)の「ぬし」であった。変人だったが、温和で親切な人だった。
 T大には本郷(ほんごう)・駒場の両キャンパスがあるが、駒場寮は駒場キャンパスのはずれにある、男子学生専用の宿舎だった。
 読者の中には、この駒寮の中にある「中研」(中国研究会)に行かれた事がある方もいらっしゃるだろう。そこである。
 築何十年かは知らない。蔦(つた)や雑草になかば埋もれたお化け屋敷みたいな木造の建物で、家賃は(当然ながら)無料同然だった。
 私はT氏と親しくなり、よく部屋を訪ねた。
 昼なお暗き駒場寮に入れば、ギシギシ鳴る廊下の壁には
「健児は夜、孤剣を磨く」
「哀哉、今年はシュメール王国滅亡三九四九周年!」
などと、びっしり落書だらけである。
 古い沼にはなかば妖怪化した「ぬし」がいる、というが、T氏はこんな駒場寮に十年以上も住んだ「ぬし」であった。在寮期限をとっくに使い果たしていたT氏は、寮のはずれの『今昔物語』(こんじゃくものがたり)に出てきそうな空き部屋にひとりで住んでいた。
 アル中に近いT氏の部屋には、酒が沢山置いてあった。T氏は、ガラス瓶の中にトカゲが丸ごと漬かっている異臭の中国酒を飲みながら、私に言った。
「へー。君、京劇が好きなのか」
「ハイ。ビクターから出てる京劇『孫悟空』(そんごくう)のレコードを聴いてシビれましてね。あの音楽、すごくいいと思います」
「あのレコードはぼくも聴いたけど、あんまりぼくの好みじゃないな。ぼくの好きなのは、同じ中国音楽でも『江南糸竹』(こうなんしちく)とかだね」
 T氏は手を伸ばし、自分の愛器である紅木の胡弓を弾きはじめた。「江南糸竹」のゆるやかなメロディーが流れる。…
「でも私は、あの殺伐(さつばつ)とした、いかにも北方らしい京劇音楽が好きなんです」
「じゃあ君、新橋(しんばし)の中華料理屋に行くといいよ」
「新橋の中華料理屋?」
「そこの別館で、在日華僑(ざいにちかきょう)の人たちが毎週日曜日の夜に集まり、京劇の歌を練習してるんだ」
 そのような京劇のサロンを中国語で「票房」(ピャオファン)と言う。およそ中国人の住む所には、アメリカだろうとフランスだろうと、どこでも票房がある。が、東京にも票房がある、というのは初耳だった。
「でも誰かの紹介がなければ……」
「ナーニ、中国人は開放的だから、いきなり行っても大丈夫さ」

 

票 房 に 通 う

 X飯店は地下鉄・大門(だいもん)駅のすぐ近くにある大きな中華料理屋である。
 ある日曜の夕方、私はひとりX飯店別館に行った。
 開けっぱなしの扉の中から、京劇特有の高音の胡弓の音色と、女性のかん高い歌声が聞こえる。
 ーここだ!
 私はそーっと、野良犬のように入り込んだ。
 部屋の真ん中では、洋服を着た六十代くらいの厚化粧の女性が、立ったまま京劇のひとふしを歌っている。その隣では、ちょっと谷啓(たにけい)に似た顔立ちの中年男性が椅子に座り、小型の胡弓を伴奏している。見回すと、部屋の中にはその他に十人くらいの初老の男女がいて、ペチャペチャと上海語(しゃんはいご)でしゃべっていた。
 まず誰かここの責任者を探し出し
「私は人畜無害の日本人京劇ファンです。見学させてください」
と礼を尽くして頼みこもうと思った。
 が、誰が責任者か一向にわからない。
 不思議なことに、私が中に入っても、誰も私の事など気にとめなかった。私は勝手に近くの椅子に座って、ビクターの商標の犬のように、胡弓の音色に耳を傾けていた。……
 その日以来、私は毎週その「東京票房」(とうきょうひょうぼう)にお邪魔することになった。
 その後、すこしづつわかったのだが、票房には毎回何人かは新しい客が入れ代わり立ち代わり来ていた。また、私以外にも京劇のファンである若い日本人が、何人かこの票房に通っていた。
 票房のメンバーのほとんどは上海人で、裕福な華僑(かきょう)とその夫人たちだった。そして胡弓を伴奏していた男性は、台湾から呼ばれた京劇のプロの伴奏者のW氏だった。

 「東京票房」の代表・Z氏は、戦後間も無く日本に定住・帰化した、横浜在住の華僑である。ちなみにZ氏は数年前、桂小金治(だったかな?)司会のテレビ番組で、脚本家のジェームス三木氏と「ご対面」したことがある。ジェームス三木氏がまだ歌手としてデビューしたての貧乏時代、Z氏経営のクラブで雇ってもらっていたそうな。
あのころのジェームス三木ね、かわいそうだったよ、お金ぜんぜん無いよ。だから、ぼくの家の廊下で寝てたよ」
 Z氏はじめ華僑の人たちは寛大だった。私のような見知らぬ日本人が来ても、京劇が好きだ、というただそれだけの理由で受け入れてくれた。
「あんた、楽器好きか? じゃ、これ弾きなさい」
 Z氏らは私に京劇の楽器の弾き方や歌い方を教えてくれた。
「あんたねえ、日本人なのに京劇好きは、ホントめずらしいことよ」
 彼らは会費を毎月納めているのであるが、私からは要らないと言った。また毎週、票房が終わると、X飯店の本館で食事会になる。会費は毎回二千五百円であったが
「あんた、まだ学生、タダでいいよ」
と、その後ずっと大食漢の私におごってくれた。

 票房には日本の国内外から、毎週、いろいろな人が顔をのぞかせた。当時は今ほど大陸と台湾の交流が自由でなかったが、票房では「海峡の両側」の客が仲よく交流していた。本場のプロの京劇俳優もよく遊びに来た。また日本に京劇団が来日すると、票房が歓迎パーティーを主催した。

 票房が、テレビの「世界ふしぎ発見」という番組で中国音楽を演奏したとき、私もこっそり後ろの方で楽器をひいていた(一秒くらいテレビに映った)。
 私は票房で実に沢山の人々と知り合った。

(1999年6月14日追記・・・文中のx飯店とはJR浜松町駅から徒歩5分のところにある「新亜飯店(しんあはんてん)」のこと。山下輝彦先生の京劇のホームページ(クリック)に「東京票房」の現状と入会案内の記事があります)

 

京 劇 に の め り 込 む 日 本 人 た ち

 一九八六年、私はいつしか大学四年生になっていた。
 意外だが、京劇が好きでたまらない、という日本人はけっこう居た。しかも、それらの日本人は、実にいろいろな入り方で京劇に魅かれていた。
 京劇研究会の会長・S沢さん(女性)も、そんな一人であった。
 そもそも、私が京劇を好きになったきっかけは、ビクターから出ていた京劇『孫悟空』の劇団のレコードを聴いたのがきっかけだった。その京劇団が何度目かの来日をした時の事である。
 私は、京劇俳優のL氏を宿泊先のホテルに訪ね、雑談していた。
 と、ドアがノックされ、見知らぬ中年男女が数人、部屋に入ってきた。彼女らはL氏の友人とのことだった。
「こんにちはLさん、久しぶりですね」
 その中のひとりのヒゲの男は、大きなVHSのビデオデッキを肩にかついでいた(当時8ミリビデオはまだ無かった)。それをホテルの部屋のテレビにつなぐと、L氏に持参したビデオテープを見せ始めた。
 その集団には中国語をしゃべれる人がいなかったので、私は即席の通訳をつとめた。
 ビデオを見ながら代表格のS沢さんがL氏に説明する。
「これは、わたしたちが東京で実験上演した京劇『三岔口(さんちゃこう)』です。あまりうまくありませんが」
 L氏は目を丸くして画面に見入っている。
「この立ち回りはどうやって勉強したの?」
「Lさんが七年前、東京で公演したときのテープを教材として、みようみまねで上演しました」
「この京劇の衣裳とか、小道具とかは、どうやって?」
衣裳も小道具も、自分たちの手で日本で作りました。実物を参考にすることができず、写真やビデオなどの乏しい資料だけを便りに、代用の材料で作りました。本場の方が見たらおかしい限りだと思いますが……」
「楽器は?」
「ドラが無いので、鍋(なべ)をたたきました」
 S沢さんはじめ、この数人の日本人の集団は、みな新劇の役者だった。のち、私も含めて「京劇研究会」を結成することになる面々である。

 ホテルからの帰り道、私はS沢さんにたずねた。
「なんでまた日本で京劇なんか上演しようと思ったんですか」
 酒豪でもある(後に私はさんざん思い知らされた)S沢さんは、ハスキーな声で語った。
「わたしの芝居の先生でね、去年、癌(がん)で亡くなったんだけど、木村鈴吉(きむらすずきち)っていう俳優座(はいゆうざ)の先生がいてね。その先生といっしょに、ドイツのブレヒトの芝居を研究していたのよ」
「ドイツのブレヒト?」
 ブレヒトーー一定の世代以上の役者は、この名前に限りない郷愁と思い入れをもっているだろう。
 言うまでもなくブレヒトは、第二次世界大戦前から戦後まで活躍した、左翼的な演劇人である。ブレヒトは中国にも深い同情と共感を寄せ、京劇を参考に演出した芝居や、中国を舞台にした作品(「セチュアンの善人」など)を多数ものしている。
 ブレヒトの作品は、日本にも千田是也(せんだこれや)氏らの手で紹介された。S沢さんらは、その千田是也氏の弟子筋にあたる役者である。そもそもブレヒト研究の延長として京劇の実験的上演を試みたのだが、いつしか京劇そのもののとりこになったのだという。
「あたしは昔から体を動かすのが好きだったからねえ。中国語はぜんぜんダメだけど。でも、ぜひ日本語で京劇を上演したいと思ってねえ」
「日本語で?」
「もし日本人が京劇を演じるなら、やはり日本語で演じてこそ意義があると思うの」
 東京には自主公演を行うミニ劇団がたくさんある。S沢さんの集団もその一つだった。
 私は、さっそく東京票房にS沢さんを紹介した。
 票房代表のZ氏も目を丸くして
「へー。京劇の歌やりたい日本人、たまにいますが、京劇の立ち回りやりたい日本人、珍しいよ」
と喜んだ。

 

 私 の 「 京 劇 」 初 舞 台

 それから一年後の一九八七年。東京票房と京劇研究会が合作して、第一回「日本語による京劇上演」を東京・三鷹(みたか)の武蔵野(むさしの)芸能劇場で行うことになった。
 京劇研究会のメンバーは日本人の役者だったから、大道具・照明・音響といった上演のノウハウはお手のものだった。一方、東京票房の方は、在日華僑の「社長さん」ばかりだったが、キップの手配や、中国から呼んだ京劇のプロを交えての伴奏などで協力した。
 観客は日本人と華僑が半半くらいだった。
 そこで出し物も、中国語による演目と日本語による演目と半々で上演することになり、上海京劇院の女優・王健英(おうけんえい)女史も友情出演してくれることになった。
 私も「蘇三起解」という芝居の老人役で、顔を白くメイクして舞台に立ち、つたない中国語のセリフをあやつることになった。
「加藤さん大丈夫? あがらない?」
「ま、大丈夫でしょ。幼稚園の学芸会で『食パン』の役で舞台を踏んだことがありますから」
 さて、いよいよ公演当日とあいなったのだが……。

 残念ながら、約束の紙数を超えてしまった。
 続きを書く機会があるかどうかわからないが、とりあえずおしまいにする。

1993,9,20 広島にて


[筆者の「京劇城」に行く]

[京劇研究会時代の写真がある「秘密寫眞舘」(ひみつしゃしんかん)に行く]