京劇漫談2

中国劇音楽の変遷についての
比較音楽学的検討

ーTとK、架空の二学徒の対談形式で語る

         広島大学総合科学部    加藤 徹


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要 旨
「研究誌季刊中国」1995年秋季号,pp.21-31,1995年9月
 日本の「能」の伴奏で、弦楽器が排除されているのはなぜか。こんな素朴な疑問に、従来の演劇研究は解答できなかった。
 筆者は、まず全地球的視野に立ち、これが「能」だけの問題ではないこと、すなわち、中国の初期の演劇「元曲」や、古代ギリシアの演劇、中世ヨーロッパの典礼劇などが、おしなべて「声楽・気鳴楽器中心主義」を採用している事実を指摘する。そして、それぞれの地域で時代が下ると歌舞伎(三味線)、京劇(いわゆる胡弓)、オペラ(バイオリン)など近世の演劇が「弦楽器中心主義」になってしまう事実も指摘する。そのあと解答として、大胆な学際的発想による仮説を呈示する。演劇、音楽のみならず、「臨死体験」など人間の深層心理に興味のある人にもおすすめ。


☆演劇と音楽は姉妹芸術

T 演劇と音楽は姉妹芸術です。両者はともに再現芸術であり、本質的に「身体感覚」(俗に言う「ノリ」)を楽しむ営為であるという点で共通します。
  よく混同されますが、「戯曲」と「演劇」は違います。「戯曲」は文学としての脚本です。脚本は演劇の一要素であっても、演劇そのものではありません。
  世界の古い演劇は、どこでも音楽と不可分の関係にありました。古代ギリシアの合唱隊の演劇、中国の元曲、日本の能……古いかたちを残す演劇は、すべて音楽劇ですね。音楽と演劇の分離は、近世に入ってからです。
K 日本は狂言のころから、西洋ではシェークスピアのころから、演劇が楽劇と話劇に分離する傾向が顕著になった。
T この意味で中国の演劇は保守的でした。すでに明代「せりふ」だけで「うた」の無い齣を含む「曇花記」という戯曲を書いた屠長卿のような例外もありましたが、全体として、中国の伝統演劇は最後まで楽劇としての性格を保持していました。本質的な原始性を保持したまま高度な技巧をもって発展させる、というのは中国文化の根本的性格の一つですが、演劇においても、そのしたたかさが見られます。
 中国には三百種とも五百種とも言われる地方劇が存在しています。そうした地方劇、つまり伝統演劇は、例外なく高度な楽劇です。「うた」中心の演目(文戯)だけでなく、「立ち回り」中心の演目(武戯)でさえ、鑼鼓やサ([口+(鎖-金)])吶(チャルメラ)による伴奏がつきまといます。
K 中国語に「聴戯」つまり「芝居を聞く」という言い方があるね。また役者の基本は「唱念做打」の四つだ、という言い方もある。
T 中国語は方言を問わず、みな声調を持っています。その意味で、本質的に音楽性の高い言葉だとも言えます。それと、中国文明が本質的に持つしたたかな保守性が原因となり、中国伝統演劇は一貫して音楽劇であったのでしょう。

☆演劇の発展史のパターン

T 世界各地の古い演劇について調べてみますと、多くの場合、演劇の起源が宗教祭祀儀礼にあったことがわかります。
K 君の指導教官だった田仲一成先生の労作『中国祭祀演劇研究』(東大出版会)は、その方面の先駆的研究だね。
T いま田仲先生の説を援用しつつ、ぼくの憶説を、左表のように纏めて掲げます。

   [世界の演劇史の一般的傾向]

   ■演劇の萌芽期 ■演劇の形成期 ■演劇の成熟期

 性格 秘儀祭祀   宗教的演劇   世俗的演劇

 目的 呪術・宗教  仲間意識の確認 娯楽・営利

 場所 聖域の中   聖域の周辺   世俗の劇場

 演者 聖職者    聖職者・信徒  職業的芸人

 対象 神・祖先   信徒集団    一般個人

 台詞 呪文的    叙事的     代言的

 音楽 斉唱的声楽  合唱的声楽   単唱的声楽

    声楽中心   気鳴楽器中心  弦楽器中心

  右表のうち「音楽」部分が、ぼくの憶説の中核です。以下、劇音楽という側面にしぼって論じていきます。

☆劇音楽は、声楽・気鳴楽器系から弦鳴楽器系に変わる

T 世界的にみて古いかたちを残す劇音楽は、使用楽器に共通の特徴があります。みな「声楽・気鳴楽器系」なのです。日本の能の伴奏も、能管と鼓と人の声です。
  声楽は人の声帯を呼吸でふるわせて声を出すわけで、気鳴楽器と同系といえます。つまり「能」の伴奏楽器は、声楽・気鳴楽器系と打楽器だけです。当時、すでに琵琶や琴など豊富な弦楽器が存在していたのに、能の伴奏楽器としては弦鳴楽器が意識的に排除されていたのです。
  実は、中国でも古いかたちを残す儺戯の伴奏音楽は、やはり声楽・気鳴楽器系なのです。
  西洋の教会音楽も、パイプオルガンと賛美歌という組合せに象徴されるように、やはり声楽・気鳴楽器系です。
K パイプオルガンは鍵盤楽器だろ。
T 鍵盤楽器とか弦楽器という分類は、弾き方によって楽器を分類する、いわば実用的分類です。   学者が楽器を分類するときは、通常、左のような発音原理による科学的分類を使います。

  [楽器の科学的五分類法]

  ■体鳴楽器  例:カスタネット、トライアングル

  ■膜鳴楽器  例:タンバリン、ドラム

  ■気鳴楽器  例:ハーモニカ、リコーダー

  ■弦鳴楽器  例:ハープ、バイオリン、ピアノ

  ■電鳴楽器  例:エレキ・ギター、シンセサイザー

K 実用的分類だと、パイプオルガンとピアノは同じ鍵盤楽器に属すが、科学的分類では異なるわけだ。
T 中国の楽器は、特に劇音楽の主伴奏楽器の設計思想は、いかに人間の声に近づけるか、ということでした。人間の 声帯は膜ですから、中国人は、気鳴楽器や弦鳴楽器にも膜鳴楽器的工夫を取り入れました。京劇の胡琴は共鳴胴に蛇の皮を張り、崑曲の曲笛は吹口に一番近い穴に竹の薄皮の膜を貼ります。
K 西洋楽器は声楽性より器楽性を重視したから、バイオリンにもフルートにも膜は貼らない。例外はアメリカのバンジョーで、これは共鳴胴に膜を貼る。このバンジョーはアフリカ起源の楽器で、膜は打楽器的要素を持ち込むための工夫だった。同じ膜でも、中国楽器の声楽性を高める工夫とは方向性が違う。
T 中国の伝統演劇は、三百種とも五百種とも言われる地方劇に分かれますが、主要演奏楽器の種類は、ほとんどその地方劇とに独自のものを使っている、と言ってよいほど豊富です。これは、各地の方言の響きに最もよく適合するよう、各地方で改良された結果です。
K たしかに北京語は高い声だし、広東語は低い声で、同じ中国語でも響きが全然ちがう。
T 日本でも三味線は、太棹三味線とか、細棹三味線とか、津軽三味線とか、伴奏すべき歌声にあわせて何種類もありますが、とても中国の胡琴類の豊富さには及びません。
  世界的に見て、中世の劇音楽は声楽・気鳴楽器系、近世の劇音楽は弦鳴楽器系、という大きな変遷の枠組みが看取できます。
  能は声楽・気鳴楽器系でしたが、歌舞伎は三味線を使います。西洋の中世の教会演劇(典礼劇・受難劇)はオルガン伴奏でしたが、近世の歌劇や楽劇はバイオリンやピアノが主伴奏楽器になりました。
  中国でも、明代までは弋陽腔(伴奏は声楽と打楽器のみ)と崑曲(伴奏は気鳴楽器系)が盛んでしたが、清代には弦鳴楽器的な地方劇に地位をとって変わられました。この経緯については、また最後に詳述します。

☆気鳴楽器と弦鳴楽器の本質はちがう

T 古い劇音楽は声楽・気鳴楽器系、新しい劇音楽は弦鳴楽器系、という世界的趨勢の存在について述べました。次に、その趨勢の原因について私見を述べてみます。
  気鳴楽器と弦鳴楽器は、本質的に異質の楽器だと思います。人間の深層心理に与える効果が、実は、違うのではないか、と。両者の性格を対比してまとめてみます。

      [気鳴楽器]    [弦鳴楽器]

 [原理] 呼吸で音を出す   手や指で音を出す

 [性向] パトス的・感情的  ロゴス的・理知的

 [効用] 外向的・集団的   内向的・個人芸的

  例えば日本の義務教育で、音楽の時間に生徒に楽器を合奏させる場合、ピアニカやハーモニカ、リコーダー、アコーディオンなどを使います。これが全て気鳴楽器であるのは偶然ではないでしょう。
K まあ、たしかに、ぼくの知っている範囲では、ピアニストは個人主義的な人が多いね。アコーディオンの横森良造さんみたいに、満面の笑みを振りまきながらピアノやギターを弾く人は、あまりいない(笑)。
T そもそも、古代日本語では、広く弦鳴楽器のことを「こと」、気鳴楽器のことを「ふえ」と呼んでいたんですね。「こと」は「言」すなわち「事」(古代人は言語と事象を区別しなかった)の意でした。古代社会では、神の言葉を聞くための神聖な道具として「こと」を使用したのです。「言」はギリシア語でいう「ロゴス」ですね。
K 「ジャックと豆の木」の喋る竪琴も、その一種だね。
T 弦鳴楽器は、古代社会においては、本質的に論理と調和を象徴する楽器であり、個人の修養に使われました。
  古代中国でも、(きん。弦鳴楽器)は君子の修養の楽器として重んじられました。琴は、人類の楽器の中で、最も弦楽器的本質に肉薄した楽器です。他人に聞かせるためにではなく、純粋に自分の精神世界を深めるために弾く楽器です。気鳴楽器で琴に匹敵する扱いを受けた楽器は存在しません。
  ギリシアでも、弦鳴楽器である竪琴はアポロ神の楽器とされ、論理と調和の象徴とされました。熱狂的なアウロス(気鳴楽器・複管オーボエ)がディオニソス神の楽器とされたのとは対象的です。ピタゴラスが「一弦琴」をもとに数学的な音階理論を構築したのは有名な話です。
  いっぽう「ふえ」の語源は「振え」です。古代人は、気鳴楽器を、魂振すなわち生命を振動させ活性化させるための神聖な道具として扱っていました。
  日本語の「いき」(「息」すなわち「生き」)やラテン語の「アニマ」が端的に示すように、洋の東西を問わず、古代人は生命を「呼吸」としてとらえていました。自然の呼吸である風は、神の息吹でした。
  「ちはやぶる」という「神」にかかる枕詞の原意は「風 が早く吹きすさぶ」意です。女が風を受けて孕む民話も、日本各地にあります。西洋でもラテン語「スピリット(精霊)」は「息」が原意です。「聖書」には、神がアダムを土から作り自分の息を吹き込んだ、という記述があります。
  気鳴楽器は、人間の肉体に内在する生命エネルギーを外在化する能力を秘めた神秘の道具でした。内なる霊力を外 化する、という外向的性格こそ気鳴楽器の本質でした。
K 「こと」は神の「言」を聞くための道具だった、ということだが、「ふえ」は生命エネルギーを増幅する装置だったという訳か。喩えていうと、神事で使う「こと」は神霊の霊的波動に共鳴するアンテナ、神事で使う「ふえ」は現世から「あの世」に呼びかけるスピーカー(笑)。
T 日本の神道では招霊のため石笛を使い、仏教の声明音楽では法螺貝を使いました。アメリカ南部の黒人は「ジャズ葬」といって、トランペットサックスを吹きまくり、死んだ仲間の霊に餞別として生命エネルギーを与えました。中国の「哀楽」(葬儀用音楽)の主伴奏楽器は[口+(鎖-金)]吶(チャルメラ)です。西洋ではパイプオルガンやトランペットなどが同じニッチェ(生態系上の位置)を占めています。
  気鳴楽器には、このような宗教的意味が付与されていたため、軍楽にも気鳴楽器が多用されました。軍隊は「死」と直面する人々の集団であることを考えれば、宗教儀礼音楽と軍楽の共通性は、決して奇異ではありません。
  だからこそ古代ユダヤの軍隊はラッパによってジェリコの城壁を破壊し、オスマン・トルコの軍楽は(これが近代西洋のブラスバンドの源流ですが)気鳴楽器系の伴奏で神と預言者の御名を称えつつ進軍しました。古代中国の軍楽の「短簫」、日本の合戦でも使われた法螺貝など、人類の軍楽は完全に気鳴楽器中心主義でした。
  そして古代の軍隊もまた、寺院とならび、初期演劇の重要な揺籃の一つだったことを付言しておきます。
K 歌舞伎の幽霊が、風にゆれる柳の下で、「ヒュー、ドロドロ……」という打楽器・気鳴楽器系の伴奏で登場するわけが、君の説明でわかったよ(笑)。
T 幽霊の話のついでに余談に走ると、中国でも風に対する信仰はかなり後の時代まで残っていたんですね。「旋風」つまりつむじ風が起こると、そこに目にみえぬ幽霊がいる、と昔の中国人は考えました。
  『水滸伝』の登場人物のひとりに「黒旋風の李逵」というのがいます。古い演劇である元曲にも、この「黒旋風の 李逵」を主人公にした作品がいくつかあります。ぼくの睨むところ「黒旋風」は明らかに鬼つまり幽霊を意識した呼称で、「逵」という名も「鬼」と関係があるんですね。

☆人間の原初的音体験は、まず打楽器、次に気鳴楽器

T [土員](音ケン。土ぶえ)やオカリナを聞くと、ほのぼのとなつかし い気持がします。別に子供のころこれらの楽器を吹いていた訳でもないのに。また、太鼓の速いリズムを聞くと、精神が高揚しますね。考えてみれば不思議です。
  気鳴楽器や打楽器の音色がそのような精神効果をもたらす理由は、人間が哺乳類だからです。
K 例によって唐突な論理展開だね(笑)。
T 人間は、すでに胎児の段階で聴覚が相当に発達していることが判っています。胎生六カ月以降の胎児は、常に「聞き耳」をたてて、母親の心臓の鼓音を聞いているそうです。
K 子宮の中は嗅覚も視覚も無用の世界だが、たしかに聴覚は有用だ。「胎教」と称して妊婦に静かな音楽を聞かせることもする。
T 余談ですが、人間の五感の中で最も強固なのも、この聴覚なんです。外科手術で全身麻酔をかけられ意識朦朧の状態でも、聴覚だけが残っていて、手術中の音が聞こえた、という患者の事例は珍しくありません。
K 聴覚はもっとも原始的な感覚という訳だ。「ピアノの音がうるさい」といって隣人を殺す「聴覚殺人」はあっても、右翼の闘士が赤い服を着た人を殺す「視覚殺人」はありえない、と、前に井上ひさしが書いていた(笑)。
T 人間は、胎児の記憶を潜在意識のレベルで持っています
 実験的に、新生児室内に母親の心臓の鼓動音の録音を流すと、新生児はリラックスした状態で眠る、という医学的研究もあります。
  子宮の中で聞いた心臓の鼓動という打楽器的音体験を、人間は誰でも潜在意識の底辺で持っているからです。次に来るのは、出生時の呼吸体験と産声体験で、これは声楽・気鳴楽器系の原体験です。
K 幼児が良い例だね。子守歌の「デンデン太鼓にしょうのふえ」という玩具は打楽器と気鳴楽器で、子供はほっといてもこれで遊ぶ。でも、弦鳴楽器の音は、原初的音体験の刷り込みがないから子供には向かない。早期教育に熱心な母親が子供にバイオリンやピアノを習わそうとすると、子供はたいてい逃げ出す(笑)。
T 弦鳴楽器の元祖は、古代民族においては狩猟用具としての「弓」でした。これを「楽弓」と言い、旋律よりもリズム演奏に適した「弦鳴打楽器」です。旋律的弦鳴楽器の発明は、人類の歴史の中でもかなり新しい段階ですよ。
K そもそも弓という道具が人類に普及したのは、氷河期が終わって投槍器がすたれて以後だね。オーストラリア先住民のように「弓」という道具を持たない民族もいた。
T われわれの胎児体験は、先祖の哺乳類の歴史にさかのぼれば一億年以上の歴史を持ってます。でも「弓」という道具とのつきあいは、せいぜい一万数千年にすぎません。
K 一億年と一万年の差か。弦鳴楽器が特殊なわけだ。

☆古い演劇の効用は「疑似再出生体験」だった

T 能や儺戯(だぎ)など、古いかたちの演劇の核心は「死者の再生」でした。祖先や英雄など、すでに「あの世」に去った人物を劇的空間において「この世」に再現させる、ということが、初期の演劇の効用だったのです。
K 中世キリスト教の「受難復活劇」も本質は同じだね。
 能の登場人物が「すり足」で登場するのは、「現世」と「あの世」の無限の距離を象徴するための演技だと聞いたことがある。
T 中国でも、古い演劇では、役者が舞台に登場する出入口を「鬼門道」と呼んでいました。「幽霊の出入口」という意味です。
K そういう死んだ人物を舞台のうえに蘇らせるために、打楽器をポンポン叩いて、一種の「心臓マッサージ」をするわけだ。そして気鳴楽器を使って「人工呼吸」を行い、声楽伴唱で「産声」を再現する……
T そういう比喩も面白いですね。
K 古代ギリシア演劇の伴奏も、アウロスの笛や合唱隊による単旋律音楽だった。基本的に能と似たものだったろう。
T ぼくは「疑似再出生体験」という用語を作り、「初期段階の演劇の本質は、疑似再出生体験である」という表現をしています。もっとも、これと同じことを、すでに多くの研究者が別の表現で述べています。
  ただ先行の研究者が気付いてない点を一つ、ぼくがつけ加えるとするなら、「疑似再出生体験」には旋律的な弦鳴楽器はむしろ邪魔である、ゆえに古いかたちの劇音楽は旋律的弦鳴楽器を排除する傾向が強い、ということです。
  新しい世俗的演劇は、たとえば歌舞伎は三味線を、オペラはバイオリンを、京劇は胡琴を主伴奏楽器とします。それぞれの一時代まえの古い演劇は、たとえば能は能管を、中世劇はポータブルオルガンを、崑曲は曲笛を、というように、気鳴楽器を伴奏楽器として使っていました。

☆気鳴楽器の集団性、弦鳴楽器の個人芸性

T 伝統の破壊のうえに成立した現代音楽では、気鳴楽器と弦鳴楽器の性向の違いは見えにくくなってます。が、気鳴楽器の集団性、弦鳴楽器の個人性、という両者の差は、前近代まではかなり明確なものでした。
  西洋の童話「ハーメルンの笛吹き」は、実際にあった子供の集団失踪事件という悲しい記憶をもとにした童話という説が有力ですが、これは「笛」という気鳴楽器でなければなりません。子供たちという集団を動かす以上、外向的な気鳴楽器こそがふさわしいのです。
  対照的に、グリム童話「いばらのなかのユダヤ人」は、たったひとりのユダヤ人を踊らせるだけですから、「バイオリン」という弦鳴楽器がふさわしい訳です。
  中国の楽器関係の故事でも、気鳴楽器と弦鳴楽器の性向の違いを象徴する事例は枚挙にいとまがありませんので省略します。ここでは京劇音楽の事例だけを述べます。
  京劇の伴奏楽隊では、弦鳴楽器は一種類一人で演奏します。でも、[口+(鎖-金)]吶という気鳴楽器に限り、原則としてふたり以上で吹きます。
  この例外的措置は、息の切れ目で音が切れないため、という実用上の理由がひとつ。そして、気鳴楽器は本質的に弦鳴楽器ほど演奏者の個性を主張しないため、合奏しても支障がないからです。
  もし京劇の伴奏で、二人以上の演奏者が胡琴を合奏したら、個性がぶつかって、伴奏音楽として体をなさないでしょう。そもそも、京劇界では、名優はそれぞれ自分専属の琴師(胡琴弾き)をかかえていたほどです。
K たしかに胡琴類のような弓奏楽器(擦弦楽器)は、弦鳴楽器の一つの極致だね。弓奏楽器の歴史は二千年にも満たない。新しい楽器だけに、その旋律演奏能力は卓越してる。
T 中国の胡琴も西洋のバイオリンも、先祖をたどれば中央アジアの弓奏楽器が源流です。中国への弓奏楽器の流入は、西洋への流入より早かったと推定されます。北宋の宮中で奚琴(胡琴類)が演奏された記録も残っています。
  中国でも西洋でも、この弓奏楽器という新しいハードウェアは、音楽史に劇的変化をもたらしました。
  弓奏楽器は最も完璧に近い「各弦複音楽器」であり、中国語の声調を完璧になぞることが可能です。このような新しいハードウェアは、伴奏される歌詞の文学的形態まで根本的に変えてしまいました。具体的にいうと「詩讃系歌詞における平仄格律の消滅」と「方言半白話歌詞流行の準備」ですが、この問題探求は別の機会に譲ります。

☆各地方劇の核心は「声腔」つまり「うた」

T 中国伝統演劇は多数の地方劇に分かれますが、視覚的な差よりも聴覚的な差が大きいのです。耳で聞くと、使用方言の響きも、うたの旋律も伴奏楽器の音色も異なるから、すぐにどの地方劇か分かります。「腔調」つまり節回しこそが、地方劇の命です。
  「腔調」はまた「声腔」とも言います。ある地方劇の特徴を定義するとき、だから、この「声腔」をもとに定義すると便利なんです。たとえば「京劇とは、二黄と西皮を主要腔調とし、北京語を使用する地方劇である」と。
K そういう定義にしたがえば、たしかに「紅灯記」などの革命的現代京劇も、立派な京劇にはいる訳だ。
T 地方劇の使用声腔の種類は、膨大な数にのぼります。
  中国の地方劇は清代以降、急速に発達したわけですが、こうした清代以降の膨大な種類の声腔は、左のような四種類に大別するのが普通です。

  [四大声腔系統][歌詞][主要伴奏楽器]

   a、高腔系……楽曲系  無伴奏(幇腔・鑼鼓)

   b、崑曲系……楽曲系  気鳴楽器

   c、[木邦]子系……詩讃系 (気鳴楽器)弦鳴楽器

   d、皮黄系……詩讃系  弦鳴楽器

  右の四つの配列の順番は、ほぼ形成の歴史順です。
  楽曲系の歌詞は声楽・気鳴楽器系の伴奏で、詩讃系の歌詞は弦鳴楽器系の伴奏でうたわれる傾向が看取されます。
  主要伴奏楽器というハードウェアと、それによって伴奏される「歌詞」というソフトウェアの相互の影響関係について、先行研究は皆無に等しい状態です。私は現在、古脚本と古楽譜の両面からこの問題を研究中ですが、今回はとりあえず各声腔の特徴と楽器の関連を述べるにとどめます。

  [a、高腔系の伴奏音楽]

  高腔系は、明代以来の弋陽腔という声腔が、中国各地で土着化して形成されたものです。無伴奏の声楽だけのうた(徒歌)、打楽器によるあいの手(鑼鼓)、地謡のような伴唱(幇腔)を特徴とします。
  「幇腔」は、四大声腔のなかで最も古いかたちを残す高腔系のみに残っている特徴です。古い時代、演劇は叙事的なせりふや歌を多用し、その声楽も集団的声楽が中心でした。「幇腔」は古代ギリシアの合唱隊や日本の地謡にあたりますが、中国では早くにすたれてしまいました。近世に入って演劇の世俗化が進み、個人芸化が進んで、観衆の関心も個々の役者の個人芸的うたに移ったためです。
  高腔の伴奏音楽形態は、「素朴」というより、むしろ高度な宗教的洗練を経た技巧ととらえるべきでしょう。
  ただし、地方劇の世俗化が急速に進んだ二〇世紀においては、高腔に管弦楽による伴奏をつけて上演する事例も増えています。

  [b、崑曲系の伴奏音楽]

  崑曲は明代に成立した地方劇です。日本で言えば「能」にあたるような、古い伝統と高い格式を持つ地方劇です。
  崑曲の主要伴奏楽器は、本来、曲笛と鑼鼓だけでした。曲牌によっては[口+(鎖-金)]吶で伴奏します。琵琶・月琴・二胡などの弦鳴楽器は、二次的に伴奏楽器に加わったものです。
  清末の、崑曲から京劇へ、という交替の要因について、先行研究は音楽面からの考察が十分でないのが残念です。

  [c、[木邦]子系の伴奏音楽]

  最近の研究によって、古い[木邦]子腔の旋律は、「吹腔」という気鳴楽器で演奏される声腔の旋律と酷似することが判明しました。
  [木邦]子系の主要演奏楽器は弦鳴楽器ですが、気鳴楽器も併用する点が特異です。気鳴楽器から弦鳴楽器への更新途中という過渡的形態を残している点が、[木邦]子系劇音楽の特徴です。弦鳴楽器としては、昔は秦箏、今は板胡(胡琴類)が普及しています。気鳴楽器では[木邦]笛や[口+(鎖-金)]吶を使います。

  [d、皮黄系の伴奏音楽]

  皮黄というのは、別に黄色人種の芝居という意ではなく、「西皮」と「二黄」という二つの声腔を合わせて呼んだ呼称です。京劇は、皮黄系地方劇の代表種です。
  西皮にせよ二黄にせよ、胡琴という弦鳴楽器によって伴奏されます。胡琴に次いで重要なのは月琴で、以下、楽隊の余裕に応じて、三弦、中阮、大阮、二胡などの弦鳴楽器を追加できます。いずれにせよ、皮黄の伴奏楽器は純粋な弦鳴楽器ばかりです。ただ、ごく特殊な演目に限って使われる「[口+(鎖-金)]吶二黄」という例外があり、古い時代、二黄がまだ気鳴楽器によって演奏されていた時代の名残と言われています。ちなみに民国初年のころまでは、二黄を「二簧」とも書きました。
K 「二簧」は西洋の言葉に直訳すると「ダブル・リード」だ。そのまま楽器用語として通用する(笑)。

☆おわりに

T 中国の伝統演劇は、演劇の原点としての普遍的性格を保持しつつ高度に技巧を洗練させた、人類が誇るべき文化の一つだと思います。その劇音楽も、中国独自の魅力ある特徴に満ちていますが、大きな目でみると、ちゃんと人類の音楽文化の普遍的な路線をなぞっていたのですね。
  私が中国の地方劇を研究している、と聞くと、普通の人は「かなり特殊な研究分野を専攻してるのですね」と呆れます。でも、地方劇はそんなに特殊な芸術ではありません。否、むしろ、人類の精神の根底に普遍的に埋まっているドロドロとしたものを考えさせてくれる点で、中国の地方劇ほど魅力的な研究素材は珍しい、とさえ言えます。
  地方劇の研究価値と魅力を、もっと多くの人に知ってもらいたいですね。
K 戯曲作品を演劇のソフトウェアとするなら、楽器は演劇のハードウェアだね。ソフトの研究にハードの理解が前提となることは自明だ。もっと関心が注がれてもいい。
  君もこれからは、あくまで学問の一貫として中国の楽器と付き合っていくよう自重すべきだ。あの加藤某のように、趣味に走って周囲の失笑を買ってはいけない(笑)。

                       (終り)

   一九九五年七月六日  ー広島にて長雨を聞きながら


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