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京劇の歴史と特徴

Beijing Opera History
1997,7,8 Last Update July 15th

「京劇」という名称について

 かつては「京戯」「平劇」「国劇」などとも呼ばれた。台湾(中華民国)は公式には「北京」という呼称を認めていないため、今でも「平劇」「国劇」と呼んでいる。また清末民初まで、単に「皮黄」「大戯」と言えば、もっぱらこの京劇を指す場合が多かった。清朝半ば以来およそ二百年の歴史を持つ、中国最大の地方劇である。
 その流行地域は中国本土全省のほか、東南アジア・アメリカ・北欧など、およそ中国人(華僑)の存在するところすべてに及ぶ。また、頻繁な海外公演を通じて、外国にも少なからぬ愛好者・研究者をもち、外国人による英語京劇さえ演じられている(早くも一九三四年、イギリスのロンドンで英語京劇が演じられ大人気を得たという。近年ではハワイ大学が北京で英語京劇を上演した)。日本でも京劇研究会など日本語京劇を上演するグループがある。京劇学校に留学する外国人も結構いるほどである。
 ちなみに「京劇」という単語は、中国の地方劇種の名称としては唯一、日本語の辞書にも登録されている。

京劇に対する人々の好き嫌い

 日本人だからといって歌舞伎や義太夫が好きとは限らないように、中国人も、京劇が好きだとは限らない。これは、世代とは関係の無い好き嫌いの問題である。そもそも、京劇の歌詞や文句は、演目にもよりけりであるが、一般的に難しく、普通の北京の人には聞き取れない。むしろ、河北[木邦]子や河南[木邦]子(予劇)の方が耳で聞いてわかるから好きだ、という北京っ子も少なくないほどである。
 そういうわけで、知識人が京劇について書いたものも毀誉褒貶が混ざっている。
 日本の芥川龍之介は、その『侏儒(しゅじゅ)の言葉』の中で、名優・梅蘭芳(メイランファン)が演ずる京劇「虹霓関」(こうげいかん)を観た感想として「女が男を猟するのである」と京劇の文学性を絶賛している。
 一方、芥川と同時期に中国で活躍した小説家・魯迅(ろじん)は、商業演劇としての京劇をきびしく批判して「社戯」(宮芝居)という短編小説を書いている。一般に、中国近代の知識人の京劇に対する評価は、辛口のものが多いようだ。
 第二次大戦をはさんで活躍したドイツの左翼演劇人・ブレヒトも、その「叙事的演劇」論を構築するにあたり、京劇の多大の影響を受けた。
 ちなみに、日本の夏目漱石は、京劇について直接コメントこそしていないものの、京劇についての知識は持っていたようだ。漱石は中国に行った経験があり、たぶん、そのとき京劇を見たのであろう。『夢十夜』の第十夜は、明らかに京劇『挑滑車』(ちょうかっしゃ)の翻案である。

京劇はいつから始まったか

 京劇史についてはいまだに混沌とした部分が多い。京劇の起源をいつに置くかについてさえ定説がない状態である。現在の主な説を年代順に並べると、

と、これだけの異説がある。
 結局、京劇の発生が何年からかを決定するのは、一本の川を上流・中流・下流に区分けするのにも似た難しさがある。各説にはそれぞれ根拠とするところがあり、一概に退ける訳にはいかない。

 確かなことは、京劇の主な源流は徽戯(本章の安徽の項を参照)であり、それに漢劇(の前身)の要素が合流し、さらに崑曲はじめ幾多の地方劇の要素が逐次そそぎ込み、曲折を経て今日見られる京劇の形が出来上がった、という事である。

「地方劇」の王者として中国に君臨しつづけた京劇

 ともあれ、京劇は大清帝国の首都・北京の繁栄をバックに、二十世紀後半に至るまで、一貫して順調な発展を続けていく。
 途中、わずかな障害がなかったわけではないが、名優が輩出し(多くは安徽・湖北の出身者)、発展に次ぐ発展を重ね、わずかに光緒の一時期、河北[木邦]子に王座を脅やかされた以外は、常に不動の地位を保ってきた。また、京劇の観客層は、北京市民から皇族・満洲貴族まで多岐にわたったが、旧中国でこれだけ広い社会階層の観衆をもっていた事も他の中国地方劇には例を見ない。

 京劇のピークは三回ある。まず、

 京劇は1960年代に入っても、依然として中国文化の主導的立場にある文化の一つであった。例えば、「文化大革命」の発端は『海瑞罷官』(かいずいひかん)という新編京劇に対する批判書であり、また「文化大革命」中上演を許された八つの芝居は、すべて京劇であった。
 京劇の衰落は「文化大革命」期、伝統演目(つまり京劇のほとんど)が全面上演禁止となり、多数の名優が迫害死したことを境に決定的になった。
 1980年代はじめ、中国の開放政策が進み、西洋の音楽・映画などが大量に入ってくると、京劇を含めた地方劇全体は完全に圧倒されてしまった。

京劇の脚本

 現在、京劇の演目数は千以上にのぼる。このうち、常演演目数は三、四百といわれる。初期の演目の大半は他の地方劇(主に徽戯、漢劇、[木邦]子など)からとったものであるが、北京で生まれた演目も少なくない。京劇の影響力が不動のものとなるにつれ、京劇から他の地方劇に移植された場合も多くなる。脚本の大部分は作者不明で、恐らく無名の芸人達が作ったものと推定されるが、民国以降は一級の文人で京劇の脚本を書く者も現れた。


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