一消一長は、世の常だから、世間は連戦連勝なんぞと狂喜し居れど、しかし、いつかはまた逆運に出会わなければなるまいから、今からその時の覚悟が必要だヨ。その場合になつて、わいわいいつても仕方がないサ。今日の趨勢を察すると、逆運にめぐりあふのもあまり遠くはあるまいヨ。 |
日清戦争はおれは大反対だつたよ。なぜかつて、兄弟喧嘩だもの犬も喰はないヂやないか。たとへ日本が勝つてもドーなる。支那はやはりスフインクスとして外国の奴らが分らぬに限る。支那の実力が分かつたら最後、欧米からドシ/\押し掛けて来る。ツマリ欧米人が分からないうちに、日本は支那と組んで商業なり工業なり鉄道なりやるに限るよ。
一体支那五億の民衆は日本にとつて最大の顧客サ。また支那は昔時から日本の師ではないか。それで東洋のことは東洋だけでやるに限るよ。おれなどは維新前から日清韓三国合縦の策を主唱して、支那朝鮮の海軍は日本で引受くる事を計画したものサ。今日になつて兄弟喧嘩をして、支那の内輪をサラケ出して、欧米の乗ずるところとなるくらいのものサ。日清戦争の時、コウいふ詩を作つた。 隣国交兵日 其軍更無名 可憐鶏林肉 割以与魯英 支那は、流石に大国だ。その国民に一種気長く大きな所があるのは、なかなか、短期な日本人なども及ばないヨ。たとへば、日清戦争の時分に、丁汝昌が、死に処して従容迫らなかったことなどは、実に支那人の美風だ。 この美風は、万事の上に願はれて居る。例の日清戦争の時に、北洋艦隊は全滅せられ、旅順口や威海衛などの要害の地は悉く日本人の手に落ちても、彼の国民は一向中平気で少しも驚かなかったが、人はその無神経なのを笑ふけれども、大国民の気風は、却ってこの中に認められるのだ。 丁汝昌も、何時かおれに謂ったことがあった。「我が国は、貴国に較べると、万事につけて進歩は鈍いけれど、その代わり一度動き始めると、決して退歩はしない」といつたが、支那の恐るべき処は、実にこの辺にある。 こなひだの戦争には、うまく勝つたけれども、彼是の長所短所を考へ合はして見ると、おれは将来の事を案じるヨ。 先年、李鴻章が来る時にも、おれは前からいつたヨ。 「あれなら談はどうにも出来る人物だから、 こちらからは、余り進んで慾をいはないがよい。出すと時には見切がはやく附く男だから、其の積りで談判しろ」 と政府の人にも忠告して置いたヨ。それを 「なに、老爺がまた古風な考を持ち出す外交の掛引は、そんな人好沙汰では行けない」 といはぬばかりで聞いて居たが、果たして李に一層上を起されたッケ。 幾ら支那人との談判だからといつたて対手に人物を見てやらないと、すべてこの通りさ。 丁汝昌は、おれが海外の一知己だが、日清戦争のときとうとう自殺してしまった。 当時、おれは今昔の感に堪へず、かういふ詩を作った。併し平仄などは、無茶だヨ。 二月十七日、聞旧知清国水師提督丁汝昌自殺之報。我深感君之心中果決無私亦嘉従容不誤其死期。嗟嘆数時。作蕪詩慰其幽魂また、病気を推して、こんな章をも 書きかけた。 二十八年二月十六日、丁汝昌その率うる所の軍艦を以て、旗我に降ると。其可否得失を論じて我が意見を聴く、我黙識するあるを以て答へず。其後、両三日を以て、丁は降る順序を終へて自刃して死すと聞く。我是を聞いて、彼の心裏を思ひ、嘆息数時。憶記す。彼が我邦に来たりし時、我家を尋ね話次懇々。其後、軍艦を招き、我に対する軍艦総督の格を以てす。其話次の一二、憶に存するものを記し、窃に彼の待遇に答ふ。海外一知己を失ひしを嘆じ、数章を記す。丁氏は、躯幹巨大、面皮浅黒く、相見る所、毫も威厳なし。且つ挙止活発、辺幅を納めず。言調真率、一傖夫み類す。彼云、君を訪問する者、君昔海軍を創始、頗る艱難を経たりと。我は昔、邦民の動乱せし時、李氏の部下に属し、難危を経たる殆七ヶ年、共登庸を蒙り始めて海軍に入る。其子弟二百名と共に英国に到る。帰り来りて一二の軍艦に将たり。然れども海軍の困難なる、得たる所なくして其任に不堪ものあり。且、有司は其用を察せず。ややもすれば、無用の長物として百事故障を成す。君が昔時の困苦可察なりと。彼一見旧知の想をなし。臆を開く。其談甚聞く可く敬す可きものあり。此の処まで書いた所が、胸中の感慨と、病餘の衰弱とで、頭痛がし出したものだから、止むを得ず其れなりにした。 今、その積でを口で話さうワイ。あの時、丁が支那当時の海軍に就いていふには、 今日我国の海軍は、如何にも見所がなく、お恥ずかしき次第だが、拙者はただ将来に期する所があつて、聊か自ら奮励して居るばかりだ。といつた。 丁のいふ所は、その語は、甚だ謙遜で、その望は、甚だ遠大であるから、おれも感心して、海外に一知己を得たのを喜び、いろいろおれの考へをも話した。 その後、軍艦に招かれて、提督の礼で待遇せられ、色々丁寧な饗応を受けれが、おれは一片の氷心を表す為めに、一首の和歌を一口の實剣に添へて彼に贈つた。そして艦内残る隅なく見物したが一体のこともなかなか整頓して、日常用ひる品などは、一つも外国製のを用ひず、支那製ばかり用ひて居た所などは実に感心したヨ。軍服なども、西洋製と支那製とを折衷したのだといつて、丁は自分の着けて居るのを指し示した。 丁に殉死した劉歩蟾の如きも、この時面会した様に覚えるが、確か沈黙がちな性質で、小男ながら、膽気がありさうだつた。 おれと丁との間には、こんな関係があるもだから、日清戦争の時分には、思ひは始終北洋艦隊の上に馳せて、敵ながらも、その消息が気に掛かった。 またあの時の聯合艦隊の司令官であつた伊東中将も、昔し神戸でおれの塾にいた縁故から、一生一度ともいふべき晴れの舞台に上つたからは、どうか日本海軍の名誉と、一身の手柄とを立てさせたいとおもつて、当時おれの胸は、あちらを思ひ、ことらを思ひ、殆ど千々に砕けたヨ。 然るに、威海衛の海戦は、敵味方ともこの上なき名誉を輝かし、世界の海戦史上に、一と花咲かせたと聞ひて、おれは実に嬉しかつた。 かくあつてこそ、おれの心配も甲斐があるといふものだ。 丁があの時の処置は、実に一点の非難すべき所もなく、海戦上に一個の新事例を教へたといつてよい。 陸戦のとき、あの様な場合に処する例は、これまで幾らもあつたけれども、世界に海戦といふほどの海戦が昔からなく、従つてあんな場合も少ないものだから、之れに処する方法の如きも、倣ふべき先例がなかつた。 丁の処置は、実に戦闘力を失った艦長が取るべき摸範を示したばかでなく粛然たる海戦史の秋の野に、一点の紅花を点じたものだ。 凡そ人間が何事にか激した時には、死ぬるのは訳もない事だらう。併しよくよく事局の前後を達観して、十位に前後の策を立て、然る後、従容として死に就くのは、決して容易な事ではあるまい。 丁汝昌の境遇の如きは、部下に数年來苦心養成した所の他日支那海軍の要素たるべき、かの二百名の秀才があり、傍には色々面倒な事をいひ出す雇外人があり、これ等の処置をつけねばならぬ。 寧ろ斃れたるまで奮戦せうかといふと、十年素養の二百名を殺さなければならず、それでは降参せうかといふと、自分の良心はどうしても許さない。 そこで丁は沈思黙考、支那海軍の将来を慮る、自分の面目をも立て、且つ雇外人への義理から、一身とを犠牲にして顧みなかつたのだ。 その心の中は、実に憫むべきではないか。 一消一長は、世の常だから、日本も支那には勝ったが、しかし、何時かはまた逆運に出会はなけれはなるまいから、今から其時の覚悟が大切だヨ。その場合になって、わいわい、いつても仕方がないサ。 今日の趨勢を察すると、逆運にめぐりあふのも余り遠くはあるまいヨ。 しかし、今の人は大抵、先輩が命がけでやつた仕事のお蔭で、顕要の地位を占めて居るのだから物一度は大危難の局に當って試験を受けるのが順序だらうヨ。 支那人は、一体気分が大きい。日本では戦争に勝ったといって、大騷ぎをやつたけれども、支那人は、天子が代らうが、戦争に負けらうが、殆ど馬耳東風で、「はあ天子が代ったのか」「はあ日本が勝ったのか」などいって平気でいる。 それもその筈サ。一つの帝室が亡んで、他の帝室が代らうが、国が亡んで、他国の領分にならうが、一体の社会は、依然として旧態を存じてるのだからノー。社会というものは、国家の興亡には少しも関係しないヨ。 ともあれ、日本人も余り戦争に勝ったなど威張って居ると、後で大変な目にあふヨ。剣や鉄砲の戦争には勝つても、経済上の戦争に負けると、国は仕方かなくなるヨ。そして、この経済上の戦争にかけては、日本人は、とても支那人には及ばないだらうと思ふと、おれは窃(ひそか)に心配するヨ。 支那人は、また一国の天子を、差配人同様に見ているヨ。地主にさへ損害がなければ、差配人は幾ら代っても、少しも構はないのだ。それだから、開国以來、十何度も天子の系統が代ったのサ。こんな国体だによって、戦争をするには、極めて不便な国だ。それだから日本人も、こなひだの戦争に大勝利を得たのヨ。 しかし戦争に負けたのは、ただ差配人ばかりで、地主は依然して少しも変わらない、といふことを忘れてはいけないヨ。 長州征伐の時にもあまり出過ぎた為にお上から叱られ、オロシヤが来た時にも和蘭と交渉し、列国が下の関を砲撃した時にも長崎で談判を開き、薩長軋轢の時にも中に立ちなどして、長らくの問天下の安危を一身に引き負うたが、そのうちには色々の人物に接した。そして日本人の間では憎まれ者になったけれども、是でも大院君や、李鴻章には、随分持てるのだ。 |
以下「松岡正剛の千夜千冊」338夜 「勝海舟 氷川清話 講談社学術文庫 1914・1972」 (0338夜 2001年07月18日) https://1000ya.isis.ne.jp/0338.html より引用。 こうして海舟が「真の国家問題」として重視したのは次のことである。「今日は実に上下一致して、東洋のために、百年の計を講じなくてはならぬときで、国家問題とは実にこのことだ」。 おれも国家問題のために群議をしりぞけて、あのとき徳川300年を棒にふることを決意した。そのくらいの度量でなければ国家はつくれない。ただ、これからは日本のことだけを考えていても、日本の国家のためにはならない。よく諸外国との関係を見ることだ。そのばあい、最も注意すべきなのが支那との関係で、すでに日清戦争でわかったように、支那を懲らしめたいと思うのは、絶対に日本の利益にならないということだ。 そんなことは最初からわかっていたことなのに、どうも歯止めがきかなくなった。これはいけない。支那は国家ではない。あれは人民の社会なのだ。モンゴルが来ようとロシアが来ようと、膠州湾が誰の手にわたろうと、全体としての人民の社会が満足できればいいのである。そんなところを相手に国家の正義をふりまわしても、通じない。これからは、その支那のこともよく考えて東洋の中の日本というものをつくっていくべきだ。 この海舟の読みは鋭かった。まさに日本はこのあと中国に仕掛けて仕掛けて、結局は泥沼に落ちこんで失敗していった。 かくして昭和の世に、勝海舟は一人としていなかったということになる。 |
魯迅作「藤野先生」、竹内好訳より引用。 http://hanaha-hannari.jp/emag/data/ro-jin01.html (前略) そこで私は、仙台の医学専門学校へ行くことにした。東京を出発して、間もなく、ある駅に着いた。「日暮里(につぽり)」と書いてあつた。なぜか、私はい まだにその名を記憶している。その次は「水戸」をおぼえているだけだ。これは明(みん)の遺民、朱舜水先生が客死された地だ。仙台は市ではあるが、大きく ない。冬はひどく寒かつた。中国の学生は、まだいなかった。 (中略) だが私は、つづいて中国人の銃殺を参観する運命にめぐりあつた。第二学年では、細菌学の授業が加わり、細菌の形態は、すべて幻燈で見せることになつて いた。一段落すんで、まだ放課の時間にならぬときは、時事の画片を映してみせた。むろん、日本がロシアと戦つて勝つている場面ばかりであつた。ところが、 ひよつこり、中国人がそのなかにまじつて現われた。ロシア軍のスパイを働いたかどで、日本軍に捕えられて銃殺される場面であつた。取囲んで見物している群 集も中国人であり、教室のなかには、まだひとり、私もいた。 「萬歳!」彼らは、みな手を拍つて歓声をあげた。 この歓声は、いつも一枚映すたびにあがつたものだつたが、私にとつては、このときの歓声は、特別に耳を刺した。その後、中国へ帰つてからも、犯人の銃殺 をのんきに見物している人々を見たが、彼らはきまつて、酒に酔つたように喝采する──ああ、もはや言うべき言葉はない。だが、このとき、この場所におい て、私の考えは変つたのだ。 第二学年の終りに、私は藤野先生を訪ねて、医学の勉強をやめたいこと、そしてこの仙台を去るつもりであることを告げた。彼の顔には、悲哀の色がうかんだ ように見えた。何か言いたそうであつたが、ついに何も言い出さなかつた。 「私は生物学を習うつもりです。先生の教えてくださつた学問は、やはり役に立ちます」 実は私は、生物学を習う気などなかつたのだが、彼がガッカリしている らしいので、慰めるつもりで嘘を言つたのである。 「医学のために教えた解剖学の類(たぐい)は、生物学には大して役に立つまい」 彼は嘆息して言つた。 出発の二、三日前、彼は私を家に呼んで、写真を一枚くれた。裏には「惜別」と二字書かれていた。 (以下略) |
中国革命の父・孫文と梅屋庄吉
1階ロビーの右手に展示してある燭台付きのアップライトピアノ(写真)は、梅屋庄吉邸において孫文夫人である宋慶齢が弾いていたピアノで、国産のもっとも古いもののひとつです。
日比谷松本楼になじみ深いお客様に、革命の志士・孫文(写真中央)もいらっしゃいました。辛亥革命時、日本に亡命中だった孫文は松本楼の代表取締役会長夫人の祖父であり、現社長 小坂文乃の曾祖父にあたる梅屋庄吉(写真は梅屋夫妻)に連れられて革命運動のため、しばしば当店を訪れております。
梅屋庄吉は、中国革命の父と称えられる孫文を一生をとおして、物心両面で支えました。
孫文は日本亡命中、足しげく梅屋邸に出入りしておりました。大正4年には梅屋邸で宋慶齢(写真)とめぐりあい、結婚式を挙げることとなります。夫婦が中国に戻るまでのあいだ、婦人は梅屋邸に身を寄せて、ひまさえあればピアノを弾いていたそうです。孫文は、しばしば松本楼も訪れていたことから、松本楼の再建後(下記)に「孫文夫人ゆかりのピアノ」が店内に展示されることとなりました。