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清末の中国と日本 ― 今も終わらない「長い20世紀」

早稲田大学EXT・中野校 コード 310315
最新の更新 2021年6月10日   最初の公開 2021年5月18日

曜日 金曜日 時間 13:00〜14:30 日程 全4回 ・05月21日 〜 06月11日
(日程詳細) 2021/05/21, 05/28, 06/04, 06/11
以下、https://www.wuext.waseda.jp/course/detail/51867/より自己引用。引用開始。
目標
・私たちが生きている今の時代がこのようになった理由を考える。
・日本史と中国史という枠組みを取り払い、世界的な視野から東アジアを見直す。
・歴史の予備知識がない人にも、身近なことから考える楽しさを体験してもらう。
講義概要
 西洋史には「長い19世紀」という言い方があります。フランス革命(1789年)から第一次世界大戦(1914年)までを指します。東アジアにも「長い20世紀」という見方があります。日本・中国・朝鮮半島を含む東アジアでは、日清戦争(1894年)から現在(2021年)まで「長い20世紀」が続いています。日中関係や日韓関係も、未来志向どころか「20世紀のやり直し」にとらわれています。旧来の常識の枠組みを取り払うと、近現代のシンプルな本質が見えてきます。この講座では、日中双方の視点から「長い20世紀」の出発点の時代を語ります。図版もたくさん使いながら、予備知識がない人にもわかりやすく解説します。
引用終了。
  1. 日清戦争の衝撃と勝海舟の予言
  2. 日本軍人が西洋軍人を指揮した北清事変
  3. 魯迅の日本留学と日露戦争
  4. 孫文の中国革命を支援した日本人

2021年5月21日 日清戦争の衝撃と勝海舟の予言
YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-mqLxNYBOtVYw3C0Z8pCnTK

○ポイント・キーワード
○デジタル大辞泉「日清戦争」より引用
にっしん‐せんそう〔‐センサウ〕【日清戦争】 明治27年(1894)朝鮮の支配権をめぐって日本と清国との間で起こった戦争。朝鮮で起こった甲午(こうご)農民戦争鎮圧のため清国が出兵したとき、対抗して日本も出兵、豊島(ほうとう)沖で開戦。日本は平壌の戦いや黄海の海戦などで勝利を収め、翌年下関(しものせき)で講和条約を結んだ。→下関条約

○象徴的な人物
※吉村昭『ポーツマスの旗 外相・小村寿太郎』新潮文庫版、pp-97-98
 恰幅のよい清国の宰相李鴻章が、各国使臣夫妻らの中で小村が最も背が低く清国の十五、六歳ぐらいだ、と笑いながら言うと、小村は、日本では大男総身に智恵がまわりかね、うどの大木、半鐘泥棒と言って大男は国家の大事を託しかねると言われていると答え、李の顔色を変えさせたこともある。

○略年表
○勝海舟(かつかいしゅう 1823年−1899年)の『氷川清話』(ひかわせいわ)より
 一消一長は、世の常だから、世間は連戦連勝なんぞと狂喜し居れど、しかし、いつかはまた逆運に出会わなければなるまいから、今からその時の覚悟が必要だヨ。その場合になつて、わいわいいつても仕方がないサ。今日の趨勢を察すると、逆運にめぐりあふのもあまり遠くはあるまいヨ。
  勝安芳 述[他]『海舟先生氷川清話 : 校訂』河野成光館、明治42年(1909)10月
  国立国会図書館デジタルコレクション
  インターネット公開(保護期間満了)永続的識別子: info:ndljp/pid/781233

24コマ目 頁 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/781233/24 「先年 李鴻章が来る時にも、おれは前からいつたヨ。・・・」
44コマ目 76頁 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/781233/44
「李鴻章は、なかなか喰へない老爺だ。・・・」
「朴泳孝は、善人だ。・・・」
「丁汝昌は、おれが海外の一知己だつた。・・・」
45コマ目    https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/781233/45
46コマ目81頁 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/781233/46
「大院君も、とうとう死んでしまつたノー。・・・」
79コマ目 147頁 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/781233/79
「一消一長は、世の常だから、日本も支那には勝ったが、しかし・・・」
「支那人は、一体気分が大きい。・・・」
「支那人は、また一国の天子を差配人同様に見ているヨ。・・・」
80コマ目 148頁 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/781233/80
「朝鮮といへば、半亡国だとか、貧弱国だとか軽蔑するけれど・・・」

84コマ目 157頁 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/781233/84
「支那を懲らすのは、日本の為めにも不利益であつた、といふ事を世間の人は今悟つたのか。・・・」
85コマ目 158頁 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/781233/85
「支那は、独逸や魯西亜に困められて、早晩滅亡するなどいふものがあるけれど、・・・」
以下は勝海舟の言葉。
 日清戦争はおれは大反対だつたよ。なぜかつて、兄弟喧嘩だもの犬も喰はないヂやないか。たとへ日本が勝つてもドーなる。支那はやはりスフインクスとして外国の奴らが分らぬに限る。支那の実力が分かつたら最後、欧米からドシ/\押し掛けて来る。ツマリ欧米人が分からないうちに、日本は支那と組んで商業なり工業なり鉄道なりやるに限るよ。
 一体支那五億の民衆は日本にとつて最大の顧客サ。また支那は昔時から日本の師ではないか。それで東洋のことは東洋だけでやるに限るよ。おれなどは維新前から日清韓三国合縦の策を主唱して、支那朝鮮の海軍は日本で引受くる事を計画したものサ。今日になつて兄弟喧嘩をして、支那の内輪をサラケ出して、欧米の乗ずるところとなるくらいのものサ。日清戦争の時、コウいふ詩を作つた。
  隣国交兵日 其軍更無名
  可憐鶏林肉 割以与魯英
 支那は、流石に大国だ。その国民に一種気長く大きな所があるのは、なかなか、短期な日本人なども及ばないヨ。たとへば、日清戦争の時分に、丁汝昌が、死に処して従容迫らなかったことなどは、実に支那人の美風だ。
 この美風は、万事の上に願はれて居る。例の日清戦争の時に、北洋艦隊は全滅せられ、旅順口や威海衛などの要害の地は悉く日本人の手に落ちても、彼の国民は一向中平気で少しも驚かなかったが、人はその無神経なのを笑ふけれども、大国民の気風は、却ってこの中に認められるのだ。
 丁汝昌も、何時かおれに謂ったことがあった。「我が国は、貴国に較べると、万事につけて進歩は鈍いけれど、その代わり一度動き始めると、決して退歩はしない」といつたが、支那の恐るべき処は、実にこの辺にある。
 こなひだの戦争には、うまく勝つたけれども、彼是の長所短所を考へ合はして見ると、おれは将来の事を案じるヨ。
 先年、李鴻章が来る時にも、おれは前からいつたヨ。
「あれなら談はどうにも出来る人物だから、 こちらからは、余り進んで慾をいはないがよい。出すと時には見切がはやく附く男だから、其の積りで談判しろ」
と政府の人にも忠告して置いたヨ。それを 「なに、老爺がまた古風な考を持ち出す外交の掛引は、そんな人好沙汰では行けない」 といはぬばかりで聞いて居たが、果たして李に一層上を起されたッケ。 幾ら支那人との談判だからといつたて対手に人物を見てやらないと、すべてこの通りさ。
 丁汝昌は、おれが海外の一知己だが、日清戦争のときとうとう自殺してしまった。
 当時、おれは今昔の感に堪へず、かういふ詩を作った。併し平仄などは、無茶だヨ。
二月十七日、聞旧知清国水師提督丁汝昌自殺之報。我深感君之心中果決無私亦嘉従容不誤其死期。嗟嘆数時。作蕪詩慰其幽魂
  億昨訪我居 一剣表心裏 委命其義烈 儒者為君起
  我将識量大 萬卒皆遁死 心血濰渤海 雙美照青史
   また、病気を推して、こんな章をも 書きかけた。
 二十八年二月十六日、丁汝昌その率うる所の軍艦を以て、旗我に降ると。其可否得失を論じて我が意見を聴く、我黙識するあるを以て答へず。其後、両三日を以て、丁は降る順序を終へて自刃して死すと聞く。我是を聞いて、彼の心裏を思ひ、嘆息数時。憶記す。彼が我邦に来たりし時、我家を尋ね話次懇々。其後、軍艦を招き、我に対する軍艦総督の格を以てす。其話次の一二、憶に存するものを記し、窃に彼の待遇に答ふ。海外一知己を失ひしを嘆じ、数章を記す。丁氏は、躯幹巨大、面皮浅黒く、相見る所、毫も威厳なし。且つ挙止活発、辺幅を納めず。言調真率、一傖夫み類す。彼云、君を訪問する者、君昔海軍を創始、頗る艱難を経たりと。我は昔、邦民の動乱せし時、李氏の部下に属し、難危を経たる殆七ヶ年、共登庸を蒙り始めて海軍に入る。其子弟二百名と共に英国に到る。帰り来りて一二の軍艦に将たり。然れども海軍の困難なる、得たる所なくして其任に不堪ものあり。且、有司は其用を察せず。ややもすれば、無用の長物として百事故障を成す。君が昔時の困苦可察なりと。彼一見旧知の想をなし。臆を開く。其談甚聞く可く敬す可きものあり。
 此の処まで書いた所が、胸中の感慨と、病餘の衰弱とで、頭痛がし出したものだから、止むを得ず其れなりにした。 今、その積でを口で話さうワイ。あの時、丁が支那当時の海軍に就いていふには、
 今日我国の海軍は、如何にも見所がなく、お恥ずかしき次第だが、拙者はただ将来に期する所があつて、聊か自ら奮励して居るばかりだ。
 拙者は嘗て、李氏の命を受けて、二百名の生徒を連れて英国へ留学し、全国の士官に就いて、少しく海軍のことを学ひ、帰朝の上、この二百名の生徒と共に、やうやく今日の海軍を創設したけれども、是はただ児戯に過ぎない。
 その事は李氏も承知と見へて「今日の海軍は、何の役にも立たない。ただ、今後十年を期して、大成すべきのだが、今日あるのは、その時の基礎とするにも足らない」と、常々われわれに云て居る。
 拙者は嘗て貴著 『海軍歴史』 を読んで、君が幕末から王政維新の際にかけて、海軍を経営せられたる閲歴と偉勲を承知し、拙者が今日の境遇にくらべて、うたた同情の感に堪へず。切に敬慕し居る
といつた。
 丁のいふ所は、その語は、甚だ謙遜で、その望は、甚だ遠大であるから、おれも感心して、海外に一知己を得たのを喜び、いろいろおれの考へをも話した。
 その後、軍艦に招かれて、提督の礼で待遇せられ、色々丁寧な饗応を受けれが、おれは一片の氷心を表す為めに、一首の和歌を一口の實剣に添へて彼に贈つた。そして艦内残る隅なく見物したが一体のこともなかなか整頓して、日常用ひる品などは、一つも外国製のを用ひず、支那製ばかり用ひて居た所などは実に感心したヨ。軍服なども、西洋製と支那製とを折衷したのだといつて、丁は自分の着けて居るのを指し示した。
 丁に殉死した劉歩蟾の如きも、この時面会した様に覚えるが、確か沈黙がちな性質で、小男ながら、膽気がありさうだつた。
 おれと丁との間には、こんな関係があるもだから、日清戦争の時分には、思ひは始終北洋艦隊の上に馳せて、敵ながらも、その消息が気に掛かった。
 またあの時の聯合艦隊の司令官であつた伊東中将も、昔し神戸でおれの塾にいた縁故から、一生一度ともいふべき晴れの舞台に上つたからは、どうか日本海軍の名誉と、一身の手柄とを立てさせたいとおもつて、当時おれの胸は、あちらを思ひ、ことらを思ひ、殆ど千々に砕けたヨ。
 然るに、威海衛の海戦は、敵味方ともこの上なき名誉を輝かし、世界の海戦史上に、一と花咲かせたと聞ひて、おれは実に嬉しかつた。
 かくあつてこそ、おれの心配も甲斐があるといふものだ。
 丁があの時の処置は、実に一点の非難すべき所もなく、海戦上に一個の新事例を教へたといつてよい。
 陸戦のとき、あの様な場合に処する例は、これまで幾らもあつたけれども、世界に海戦といふほどの海戦が昔からなく、従つてあんな場合も少ないものだから、之れに処する方法の如きも、倣ふべき先例がなかつた。
 丁の処置は、実に戦闘力を失った艦長が取るべき摸範を示したばかでなく粛然たる海戦史の秋の野に、一点の紅花を点じたものだ。
 凡そ人間が何事にか激した時には、死ぬるのは訳もない事だらう。併しよくよく事局の前後を達観して、十位に前後の策を立て、然る後、従容として死に就くのは、決して容易な事ではあるまい。
 丁汝昌の境遇の如きは、部下に数年來苦心養成した所の他日支那海軍の要素たるべき、かの二百名の秀才があり、傍には色々面倒な事をいひ出す雇外人があり、これ等の処置をつけねばならぬ。
 寧ろ斃れたるまで奮戦せうかといふと、十年素養の二百名を殺さなければならず、それでは降参せうかといふと、自分の良心はどうしても許さない。
 そこで丁は沈思黙考、支那海軍の将来を慮る、自分の面目をも立て、且つ雇外人への義理から、一身とを犠牲にして顧みなかつたのだ。
 その心の中は、実に憫むべきではないか。
 一消一長は、世の常だから、日本も支那には勝ったが、しかし、何時かはまた逆運に出会はなけれはなるまいから、今から其時の覚悟が大切だヨ。その場合になって、わいわい、いつても仕方がないサ。
 今日の趨勢を察すると、逆運にめぐりあふのも余り遠くはあるまいヨ。
 しかし、今の人は大抵、先輩が命がけでやつた仕事のお蔭で、顕要の地位を占めて居るのだから物一度は大危難の局に當って試験を受けるのが順序だらうヨ。
 支那人は、一体気分が大きい。日本では戦争に勝ったといって、大騷ぎをやつたけれども、支那人は、天子が代らうが、戦争に負けらうが、殆ど馬耳東風で、「はあ天子が代ったのか」「はあ日本が勝ったのか」などいって平気でいる。
 それもその筈サ。一つの帝室が亡んで、他の帝室が代らうが、国が亡んで、他国の領分にならうが、一体の社会は、依然として旧態を存じてるのだからノー。社会というものは、国家の興亡には少しも関係しないヨ。
 ともあれ、日本人も余り戦争に勝ったなど威張って居ると、後で大変な目にあふヨ。剣や鉄砲の戦争には勝つても、経済上の戦争に負けると、国は仕方かなくなるヨ。そして、この経済上の戦争にかけては、日本人は、とても支那人には及ばないだらうと思ふと、おれは窃(ひそか)に心配するヨ。
 支那人は、また一国の天子を、差配人同様に見ているヨ。地主にさへ損害がなければ、差配人は幾ら代っても、少しも構はないのだ。それだから、開国以來、十何度も天子の系統が代ったのサ。こんな国体だによって、戦争をするには、極めて不便な国だ。それだから日本人も、こなひだの戦争に大勝利を得たのヨ。
 しかし戦争に負けたのは、ただ差配人ばかりで、地主は依然して少しも変わらない、といふことを忘れてはいけないヨ。
 長州征伐の時にもあまり出過ぎた為にお上から叱られ、オロシヤが来た時にも和蘭と交渉し、列国が下の関を砲撃した時にも長崎で談判を開き、薩長軋轢の時にも中に立ちなどして、長らくの問天下の安危を一身に引き負うたが、そのうちには色々の人物に接した。そして日本人の間では憎まれ者になったけれども、是でも大院君や、李鴻章には、随分持てるのだ。

以下「松岡正剛の千夜千冊」338夜
「勝海舟 氷川清話 講談社学術文庫 1914・1972」
(0338夜 2001年07月18日)
https://1000ya.isis.ne.jp/0338.html
より引用。
 こうして海舟が「真の国家問題」として重視したのは次のことである。「今日は実に上下一致して、東洋のために、百年の計を講じなくてはならぬときで、国家問題とは実にこのことだ」。
 おれも国家問題のために群議をしりぞけて、あのとき徳川300年を棒にふることを決意した。そのくらいの度量でなければ国家はつくれない。ただ、これからは日本のことだけを考えていても、日本の国家のためにはならない。よく諸外国との関係を見ることだ。そのばあい、最も注意すべきなのが支那との関係で、すでに日清戦争でわかったように、支那を懲らしめたいと思うのは、絶対に日本の利益にならないということだ。
 そんなことは最初からわかっていたことなのに、どうも歯止めがきかなくなった。これはいけない。支那は国家ではない。あれは人民の社会なのだ。モンゴルが来ようとロシアが来ようと、膠州湾が誰の手にわたろうと、全体としての人民の社会が満足できればいいのである。そんなところを相手に国家の正義をふりまわしても、通じない。これからは、その支那のこともよく考えて東洋の中の日本というものをつくっていくべきだ。
 この海舟の読みは鋭かった。まさに日本はこのあと中国に仕掛けて仕掛けて、結局は泥沼に落ちこんで失敗していった。
 かくして昭和の世に、勝海舟は一人としていなかったということになる。


2021年5月28日 日本軍人が西洋軍人を指揮した北清事変
YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-mozIAzJ8YdSAE6lnzoauei
○ポイント・キーワード ○キーパーソン
★柴五郎(しば ごろう、1860年6月21日-1945年12月13日) 日本の軍人
 幼時、幕末の会津戦で祖母・母・兄嫁・姉妹が自刃。
 陸軍幼年学校に入る。砲兵科。士官学校では秋山好古(あきやまよしふる。『坂の上の雲』)と同期。
 1884年、清国の福州と北京に駐在。
 その後、英国の駐在武官、米西戦争の観戦武官などを歴任。
 1899年(明治32年)10月、陸軍中佐に進級。
 1900年(明治33年)3月、清国公使館附。義和団事件の北京籠城では籠城軍の実質的な司令官として活躍し、国際的な名声を得る。
 1919年、陸軍大将。
 1930年、70歳で退役。
 1945年、戦後に自決を図るも老齢のため未遂。それがもとで病死。

★クロード・マクドナルド(Colonel※ Sir Claude Maxwell MacDonald 1852年6月12日-1915年9月10日) 英国の軍人出身の外交官
                ※Colonelは「大佐」の意。
 1896年4月24日、駐清国イギリス公使。同時に駐朝鮮国イギリス公使を兼任(1898年まで)。
 1898年、インドと中国の国境線についてマカートニー・マクドナルド・ライン(Macartney-MacDonald Line)を清に提案。
 1900年、義和団の乱で北京籠城の総指揮者となる。軍人から外交官に転向したマクドナルドは、現役の駐在武官である日本の柴五郎中佐と一致協力し、500に満たない兵力で 20万以上の中国軍(義和団+清軍)の猛攻を55日間にわたってしのぎきった。
 この時の信頼関係が、後の日英同盟の成立に大きく役立った。

★董福祥(とう ふくしょう 1840年1月8日−1908年2月9日) 清の「甘軍」の創始者
 甘粛省出身のイスラム教徒の軍人。当時の甘粛省は今より広く、現在の寧夏回族自治区や青海省の一部も含む。
 「臣無他能、唯能殺外人耳(臣に他の能、無し。唯、能く外人を殺すのみ)」という名言(?)は有名。
 甘軍は、当時の清軍の中では最も士気旺盛だったが、北京籠城の外国人を殲滅することはできなかった。

○辞書的な説明
★デジタル大辞泉より引用
・ぎわ‐だん【義和団】
 中国清朝末期、山東省の農民の間に起こった秘密結社。白蓮教(びゃくれんきょう)の一派で、拳術・棒術などの武術に習熟。義和拳教。拳匪(けんぴ)。団匪。→義和団事件
・びゃくれん‐きょう〔‐ケウ〕【白×蓮教】
 中国の民衆宗教の一派。南宋の初め、阿弥陀信仰により蘇州の僧茅子元(ぼうしげん)が創始。民衆に多くの信者を得たため、元代より邪教として禁圧される。明代以降しばしば反乱を起こしつつ、秘密結社として清代まで存続。
・ぎわだん‐じけん【義和団事件】
 日清戦争後、義和団が生活に苦しむ農民を集めて起こした排外運動。各地で外国人やキリスト教会を襲い、1900年北京(ペキン)の列国大公使館区域を包囲攻撃したため、日本を含む8か国の連合軍が出動してこれを鎮圧。講和を定めた北京議定書によって中国の植民地化がさらに強まった。北清事変。団匪(だんぴ)事件。拳匪(けんぴ)事件。
★旺文社『日本史事典』三訂版より引用
 北清事変 ほくしんじへん 1900年,中国の義和団の乱に対する列国の出兵事件。

○略年表 参考 NHKテレビドラマ「坂の上の雲」6回「日英同盟」(原作 司馬遼太郎)
(以下、こちらのサイトより引用。引用開始)明治33年(1900)5月、英国ポーツマス港。日本への回航を待つ戦艦・朝日を真之(本木雅弘)と広瀬武夫(藤本隆宏)は興奮した 面持ちで見つめていた。さらに、ロンドン・王立海軍大学を視察。 一方、 清国では義和団が蜂起し、好古(阿部寛)は連合国軍として騎兵を率いて出征。ロシア兵たちの乱暴狼藉ぶりを 目の当たりにする。帰国した真之は、律(菅野美穂)に看病され続ける子規(香川照之)を見舞い、 その革新精神のすさまじさに驚くのだった。その頃、最早ロシアとの衝突は免れないと考えた日本は、 イギリスとの同盟を模索する。アジアにおけるロシアの勢力拡大を望まないイギリスは、 明治35年日本との間に日英同盟を結ぶ。 巨大な時代のうねりが、小さな島国の若者たちを飲み込もうとしていた。(2010年12月5日放送)(引用終了)

参考「特別寄稿=500人で2万人と戦った日本人=柴五郎中佐の北京城籠城物語=サンパウロ市在住 酒本恵三
参考「日英同盟締結:世界を驚かせたサムライ・ジェントルマン|「新・日英同盟」の行方(3)政治・外交 国際 2021.04.26 岡部 伸


2021年6月4日 魯迅の日本留学と日露戦争
YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-kuE0ZwsZHRKqyaKWXXHY_f
○日露戦争
 中国語「日俄戦争」、ロシア語 Русско-японская война(ロシア日本戦争)、英語 Russo-Japanese War、韓国語 러일전쟁(露日戦争)

○デジタル大辞泉より引用。引用開始。
にちろ‐せんそう〔‐センサウ〕【日露戦争】 明治37年(1904)から翌年にかけて、満州(中国東北部)・朝鮮の支配権をめぐって日本とロシアとの間で行われた戦争。日本は旅順攻撃・奉天の会戦・日本海海戦などで勝利を収めたが、戦争遂行能力が限界に達し、ロシアも革命勃発などによって戦争終結を望み、米国大統領T=ルーズベルトの斡旋によりポーツマスで講和条約を締結。→ポーツマス条約
引用終了。

○略年表 ○キーパーソン
★青木宣純(あおき・のぶずみ 1859−1924) 「支那通軍人」の祖
薩摩藩の支藩の出身。陸軍幼年学校、陸軍士官学校卒。
明治17年(1884)、砲兵中尉、参謀本部付の資格で中国に派遣される。
明治20年(1887)まで中国語を修得。帰国後、ベルギー留学。
明治27年(1894)からの日清戦争では山県有朋の率いる第1軍の参謀。
明治30年(1897)から33年まで清国公使館付となり、実力者の袁世凱と親交を結び、袁世凱の新建陸軍の育成を援助。
明治36年(1903)秋、参謀次長・児玉源太郎の強い要請を受け、3回目の清国公使館付となり、 諜報・謀略活動を行う。 明治37年(1904)、建前上は中立であった清国の袁世凱を内密に協力させ、日露戦争の勝利に貢献。 「謀略将軍」と仇名された。
大正2年(1913)、中将に進み旅順要塞司令。 大正12年(1923)、中華民国大総統・黎元洪(れいげんこう)の軍事顧問となる。
帰国の途中病死。

★袁世凱(えん・せいがい 1859-1916) 実力派の軍人・政治家
河南省項城県の名華の生まれ。科挙に合格できなかったが、李鴻章の新任を得て政治で手腕を発揮。
ソウルに赴任し朝鮮への清の影響力を強化した。
1894年からの日清戦争で、李鴻章の北洋軍閥は惨敗。
袁世凱は、公使館付武官の青木宣純を軍事顧問として新建陸軍を指導育成。 袁世凱は青木を「最も信頼できる日本人」と評した。
1900年の義和団事件の発端は、袁世凱が山東巡撫となり新建陸軍を使ったことである。
1901年、李鴻章の死去。袁世凱は李の政治面の後継者となる(李の財政面の後継者は盛宣懐=東京の 中華レストラン「留園」と「新亜飯店」のオーナーの先祖)。
1904年、日露戦争が勃発。故・李鴻章が秘密裏にロシア帝国と結んだ 「露清密約」により清国はロシアと連合して日本と戦う予定だったが、 清はこの密約を破棄して中立を守った。
清の政界の実力者であった袁世凱は、 こっそり日本軍に協力した。開戦前年の1903年11月中旬、袁世凱は青木宣純と 天津で会見し「情報は入り次第日本側に渡す。馬賊の使用に関しては、 その蜂起を直隷省以外で行うのなら支障ないので、秘密裏に援助する」 と約束していたことによる。
1907年には軍機大臣・外務部尚書となった。
1912年、辛亥革命後に中華民国大総統。
1915年、「中華帝国」初代皇帝。世論の猛反発にあい、すぐに退位。
1916年、病死。

★魯迅(ろ・じん 1881−1936) いわば、中国の夏目漱石。
浙江省の紹興の、落ち目の名家の出身。本名は周樹人。
少年期は、江南水師学堂や江南陸師学堂付設の鉱務鉄路学堂など、軍隊関連の 学校で学んだが、軍人にはなじめず、医者を志した。
1902年(明治35)、官費留学生として日本に派遣。
柔道家の嘉納治五郎が開いた中国人留学生向けの学校・弘文学院で学ぶ。
弘文学院は、1901年11月、東京市牛込区西五軒町(現在の東京都新宿区西五軒町)の屋敷を賃借して設立され、翌年4月に「私立学校」として正式に認可された。乾隆帝の避諱(ひき)のため 宏文学院と改称。東京で滅満興漢の「光復会」に加入した。
1904年、仙台医学専門学校(現在の東北大学医学部)の最初の中国人留学生として入学。 学校側も無試験・学費免除で厚遇。魯迅は、解剖学の教員・藤野厳九郎(1874-1945) から丁寧な指導を受けるが、 「幻灯事件」でショックを受け、 中国人の心の病を治すため、学校をやめ、文学者を志す。この前後の経緯は 魯迅の自伝的短編小説「藤野先生」(小説集『朝花夕拾』に収録)に詳しい。
魯迅作「藤野先生」、竹内好訳より引用。
http://hanaha-hannari.jp/emag/data/ro-jin01.html
(前略) そこで私は、仙台の医学専門学校へ行くことにした。東京を出発して、間もなく、ある駅に着いた。「日暮里(につぽり)」と書いてあつた。なぜか、私はい まだにその名を記憶している。その次は「水戸」をおぼえているだけだ。これは明(みん)の遺民、朱舜水先生が客死された地だ。仙台は市ではあるが、大きく ない。冬はひどく寒かつた。中国の学生は、まだいなかった。
(中略)
 だが私は、つづいて中国人の銃殺を参観する運命にめぐりあつた。第二学年では、細菌学の授業が加わり、細菌の形態は、すべて幻燈で見せることになつて いた。一段落すんで、まだ放課の時間にならぬときは、時事の画片を映してみせた。むろん、日本がロシアと戦つて勝つている場面ばかりであつた。ところが、 ひよつこり、中国人がそのなかにまじつて現われた。ロシア軍のスパイを働いたかどで、日本軍に捕えられて銃殺される場面であつた。取囲んで見物している群 集も中国人であり、教室のなかには、まだひとり、私もいた。
「萬歳!」彼らは、みな手を拍つて歓声をあげた。
 この歓声は、いつも一枚映すたびにあがつたものだつたが、私にとつては、このときの歓声は、特別に耳を刺した。その後、中国へ帰つてからも、犯人の銃殺 をのんきに見物している人々を見たが、彼らはきまつて、酒に酔つたように喝采する──ああ、もはや言うべき言葉はない。だが、このとき、この場所におい て、私の考えは変つたのだ。
 第二学年の終りに、私は藤野先生を訪ねて、医学の勉強をやめたいこと、そしてこの仙台を去るつもりであることを告げた。彼の顔には、悲哀の色がうかんだ ように見えた。何か言いたそうであつたが、ついに何も言い出さなかつた。
「私は生物学を習うつもりです。先生の教えてくださつた学問は、やはり役に立ちます」
実は私は、生物学を習う気などなかつたのだが、彼がガッカリしている らしいので、慰めるつもりで嘘を言つたのである。
「医学のために教えた解剖学の類(たぐい)は、生物学には大して役に立つまい」
彼は嘆息して言つた。
 出発の二、三日前、彼は私を家に呼んで、写真を一枚くれた。裏には「惜別」と二字書かれていた。
(以下略)
1909年、清国に帰国。生物学の教師となる。
1918年、ペンネーム「魯迅」で、小説「狂人日記」で作家デビュー。 その後、左派作家として世界的に有名になる。
1936年、上海で急逝。

参考 夏目漱石の「クレイグ先生」(『永日小品』所収)
 青空文庫のhttps://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/758_14936.htmlで読めます。


2021年6月11日 孫文の中国革命を支援した日本人
YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-ke3FJJuL5Sl68YOY0TpYL3

○キーワード ○孫文の呼び方
 日本人は「孫文」と呼ぶが、中国人は敬意をこめて号で「孫中山」と呼ぶ。

○精選版『日本国語大辞典』より引用
そん‐ぶん【孫文】
中国の政治家。字(あざな)は逸仙(いっせん)。号は中山。広東省出身。ハワイ、香港、ヨーロッパに留学。滞欧中「三民主義」を唱え、一九〇五年東京で中国革命同盟会総理となる。辛亥革命で臨時大総統に推されたが、袁世凱に政権を譲り、第二革命で日本に亡命して中華革命党を組織。一九一九年これを中国国民党に改称、三民主義を中心思想として革命を推進した。(一八六六‐一九二五)

○身近な孫文の名ごり
○孫文の略年表

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