中国の聖地 泰山

 朝日カルチャーセンター・千葉 2021年4月27日  

講師 明治大学教授 加藤 徹 http://www.isc.meiji.ac.jp/~katotoru/

 

★講座内容★ 古来、中国東部にそびえたつ泰山(たいざん)は、夜空の北斗七星とならび、特別な存在とされた。

秦の始皇帝や漢の武帝は、泰山で、世界を支配するための秘儀「封禅(ほうぜん)」を行った。李白や杜甫は泰山に旅して漢詩に詠んだ。民衆は、泰山の地下には死者たちの魂を収める役所が存在すると信じた。泰山の地下の冥府の長官「泰山府君」を寿命を司る神として祭る信仰は日本にも伝わり、能楽の題材にもなった。標高1,545mにすぎない泰山が、なぜこれほどまでの聖地となったのか。

その歴史的理由を探ると、私たち東アジア人の宇宙観や死生観の原風景が見えてくる。 

 

 

○世界の聖地の山の標高

 儒・仏・道の「三教」の泰山。山東省泰安市。標高一五四五メートル。

 仏教の霊鷲山(りょうじゅせん)。現在の「チャタ山」。標高二一五メートル。

 神道の高千穂峰(たかちほのみね)。標高一五七四メートル。

 ユダヤ教のシナイ山。標高二二八五メートル。

 

 

○デジタル大辞泉より

たい‐ざん【泰山/岱山/太山】

()中国、山東省中部にある名山。標高1524メートル。中国五岳の一。古来信仰の対象となり、秦・漢時代から皇帝が封禅(ほうぜん)の儀式を行った所。玉皇廟など古跡が多い。1987年、世界遺産(複合遺産)に登録された。岱宗。タイシャン。

()高く大きな山。

 

たいざん‐ふくん【泰山府君】

()★中国の泰山に住むという神。道教では人の生死をつかさどる神で、日本では素戔嗚尊(すさのおのみこと)に配され、また仏家では、閻魔王(えんまおう)の侍者として人の善悪行為を記録するとも、地獄の一王ともいう。

★《「たいさんぷくん」「たいざんぶくん」とも》謡曲。五番目物。金剛流。世阿弥作。桜町中納言が桜の花の寿命を惜しんで泰山府君を祭っていると、天女が一枝を手折って天に昇る。やがて泰山府君が現れ、天女を責めて花の寿命を延ばす。

()桜の一品種。花は八重で淡紅色。

 

 

○『大辞林』第三版より

さんきょう【三教】〔「さんぎょう」とも〕 @三つの宗教。㋐儒教・仏教・道教。㋑神道・儒教・仏教。㋒仏教・神道・キリスト教(明治時代の用法)。(以下略)

 

 

○○道教と泰山  五岳(五嶽)と三神山(三島)の概念図

 

蓬萊()、瀛洲、方丈     …「東海」の中の三神山

         東岳泰山

北岳恒山 中岳嵩山 南岳衡山      …中国大陸にある五岳

         西岳華山

 

 中国国内に限定すれば中心は「嵩山」(中国河南省登封市)だが、東海まで含めた広い世界で見れば泰山が世界の中心となる。

蓬萊・瀛洲・方丈の「三島」は漢文では日本の雅称としても使われる。

 東西南北に特別な霊的スポットを配置する、という発想は日本にもある。

 

  伊勢          成田

    大和 熊野    日光 江戸 南総(里見八犬伝)

    出雲          富士

 

 

○芥川龍之介『杜子春』より

鉄冠子はこう言う内に、もう歩き出していましたが、急に又足を止めて、杜子春の方を振り返ると、

「おお、幸(さいわい)、今思い出したが、おれは泰山の南の麓に一軒の家を持っている。その家を畑ごとお前にやるから、早速行って住まうが好い。今頃は丁度家のまわりに、桃の花が一面に咲いているだろう」と、さも愉快そうにつけ加えました。

 

 

○『世界百科大辞典』より

【東岳廟】…泰山は古来天神が下り死者の霊魂が寄り集う霊山とされた。その神を泰山府君または東岳大帝といい、人間の寿夭(じゅよう)生死をつかさどり死者を裁く神として人々の信仰を集め、各地に東岳廟が建てられた。現在北京の朝陽門外に残っているのが最も有名で、廟内には東岳大帝や地獄の七十六司をはじめ財神などの神々がまつられて、315日からの祭礼は殷賑を極めたという。

 

 

陰陽道と泰山

 陰陽道(おんみょうどう)は、仏教、中国の陰陽五行思想、中国の仏教、日本の神道を融合した日本独自の呪術大系。

 二〇〇一年の日本映画『陰陽師』で、野村萬斎が演じる安倍晴明が、泰山府君祭の舞いを踊るシーンがある。

 

 

○『今昔物語集』巻第十九より

【原文】「代師入太山府君祭都状僧語第二十四」

(師に代わりて太山府君の祭の都状にいる僧の事第二十四)

今昔、□□と云ふ人有けり。□□□の僧也。止事無き人にて有ければ、公け私に貴ばれて有ける間、身に重き病を受て、悩み煩けるに、日員積て、病重く成ぬれば、止事無き弟子共有て、歎き悲て、旁に祈祷すと云へども、更に其の験無し。而る間、安倍の晴明と云ふ陰陽師有けり。道に付ては止事無かりける者也。然れば、公け私、此れを用たりける。而るに、其の晴明を呼て、太山府君の祭と云ふ事を令(せしめ)て、此の病を助て、命を存むと為るに、晴明、来て云く、「此の病を占ふに、極て重くして、譬ひ太山府君に祈請すと云へども、叶ひ難かりなむ。但し、此の病者の御代に、一人の僧を出し給へ。然は、其の人の名を祭の都状に注して、申し代へ試みむ。然らずば、更に力及ばぬ事也」と。弟子共、此れを聞て、「我れ、師に代て、忽に命を棄む」と思ふ者、一人も無し。(以下、原文略)

【大意】今は昔のこと、××という人がいました。○○寺の高僧でした。優秀な僧侶だったので、天皇や貴族からも尊敬を受けていました。あるとき、彼は重い病気になり、だんだん悪くなりました。弟子たちも優秀な僧で、加持祈祷をいろいろ試みたものの、師は快復しませんでした。

 当時、安倍晴明という有名な陰陽師がいました。陰陽道の第一人者として、彼も天皇や貴顕に重用されました。弟子たちは師匠の寿命を延ばすため、晴明を招き、泰山君府の祭りをしてもらうことにしました。晴明はやって来ると、こう言いました。

「ご病気を占いました。残念ながら、泰山府君の祈祷をしても治らないでしょう。ただ、方法が全くないわけではありません。誰か一人、師の身代わりになって死んでくれる人が必要です。身代わりに死ぬ人の名を、泰山府君に祈る祭文に書き込めば、もしかすると加持祈祷は成功するかもしれません。それが唯一の方法です」

 弟子たちは押し黙り、誰も「私が師の身代わりなって死にます」と名乗り出ません。すると、長年、まったくうだつがあがらない大部屋住まいの無名の弟子がひとり、手を挙げました。

「私はつまらぬ人間です。しかも、もういい年になってしまいました。残り少ない人生を生きても、たいした善根は積めますまい。どうぞ私の名を、師の身代わりとして祭文に書いてください」

 安倍晴明は、その男の名を祭文に書きました。他の弟子たちも、師も、この風采のあがらぬ弟子の言葉に感動しました。

 祭文の効果はてきめんでした。師の病状は劇的に快復しました。身代わりの僧は、自分はもうすぐ死ぬと覚悟し、ひとり離れた場所にこもり、夜通し念仏をとなえました。

 夜があけました。安倍晴明は言いました。

「もう大丈夫です。お二人とも命を失うことはありません」

師も弟子も涙を流して喜びました。弟子の犠牲的精神が、冥界の泰山府君を感動させた、ということでしょうか。ともあれ、その風采のあがらぬ弟子は、人々から褒めたたえられ、師とともに長生きした、と伝えられています。

 

 

○能楽『泰山府君』たいさんぷくん

応永二七年(一四一九年)、室町幕府の四代将軍・足利義持(一三八六年―一四二八年)が病気になったとき、花の御所で「泰山府君の祭」が行われた。それにあわせて、能の世阿弥が『泰山木(たいさんもく)』という演目を作った。江戸時代に廃曲となったが、昭和三五年に金剛流で『泰山府君』として復曲した。あらすじは以下のとおり。

 歌人の中納言・藤原成範(ふじわらのしげのり)は、桜の花が大好きでした。彼は、吉野の美しい桜の木を自分の屋敷のまわりに移植しました。

その中に、中納言が特に愛した一本の桜の木がありました。彼はその桜のまわりを柵でかこい、花守に見守らせました。しかし花の命は短い。中納言は、わずか七日の花の命を延ばしてもらうため、泰山府君の祭をしました。

すると天から、一人の天女が舞い降りてきました。天女は、その桜の花の美しさに目を奪われ、思わず枝を一本、折り取ると、羽衣の袖にいれて、天に帰りました。

祭壇に、泰山府君が姿を現しました。泰山府君は、桜の枝を盗んだ天女を天上から呼びもどし、もとの桜に返させました。そして、花を愛してやまぬ中納言の雅やかな心に感心し、桜の花の命を二十一日間に延ばしてやり、天に帰ってゆきました。

 

 

○○儒教と泰山

 

○下村湖人『論語物語』より

 孔子は、泰山のいただきに立って、ふりそそぐ光の中に、默然として遠くを見つめている。彼を取りまいている門人たちも、石のように無言である。

 空は翡翠のように透きとおって、はてしもなく蒼い。蒼い空のもとに、静かに、しかしその底に無限の悩みをたたえて、中国がその運命的な息を呼吸している。天と地との境はわからない。中国の呼吸が、蒼空の裾をわずかに溶かして、地上の悩みをかくそうとしているかのようである。(中略)孔子がその一生の幕を閉じたのは、七十四歳の春であった。死の七日前、彼は子貢に対して涙を流しながら、次のような歌を歌ってきかしたと伝えられている。

「泰山それ壊(くず)れんか

 梁木それ摧(くだ)けんか

 哲人それ萎(しな)びんか。」

参考 『礼記』檀弓上より

孔子蚤作、負手曳杖、消搖於門、歌曰「泰山其乎。梁木其壞乎。哲人其萎乎」。既歌而入、當而坐

 

 

○『大辞林』第三版より

ほうぜん【封禅】 〔「封」は土を盛り壇を造って天を祀まつること。「禅」は地をならして山川を祭ること〕 中国古代に泰山で天子が行なった祭祀。

※司馬遷の『史記』にも「封禅書」がある。

 

 

○『論語』八佾より

【漢文】季氏旅於泰山、子謂冉有曰「女弗能救與」。對曰「不能」。子曰「嗚呼、曾謂泰山不如林放乎」。

【訓読】季氏、泰山(たいざん)に旅(りょ)す。子、冉有(ぜんゆう)に謂(い)ひて曰く「女(なんじ)、救ふこと能(あた)はざるか」と。対(こた)へて曰く「能はず」と。子曰く「嗚呼(ああ)、曾(すなわ)ち泰山を林放にも如かずと謂(おも)へるか」と。

【訳文】季氏が泰山の山祭りをしようとした。先師が冉有にいわれた。――「お前は季氏の過ちを救うことができないのか」

冉有がこたえた。――「私の力ではもうだめです」

先師がため息をついていわれた。――「するとおまえは、泰山の神は林放という一書生にも及ばないと思っているのか」(下村湖人『現代訳論語』)

〇旅ここでは、諸侯が行うべき神の祭りのこと。魯国の家老にすぎない季氏が主君をさしおいて泰山で「旅」の祭りを行うのは、礼にはずれた「下剋上」であった。〇林放…孔子に礼の本質を質問したことがある人物。(林放問禮之本。子曰「大哉問。禮與其奢也寧儉。喪與其易也寧戚」)

 

 

○『礼記』檀弓下より

【漢文】孔子過泰山側、有婦人哭於墓者而哀、夫子式而聽之。使子貢問之曰「子之哭也、壹似重有憂者」。而曰「然、昔者吾舅死於虎、吾夫又死焉、今吾子又死焉」。夫子曰「何為不去也」。曰「無苛政」。夫子曰「小子識之、苛政猛於虎也」。

※「苛政は虎よりも猛なり」の出典。

【訓読】孔子、泰山(たいざん)の側(かたわら)を過()ぐ。婦人、墓に哭する者有りて哀しげなり。夫子(ふうし)、式(しょく)して之を聴き、子路をして之に問わしめて曰く「子の哭するや、壱に重ねて憂い有る者に似たり」と。而(すなわ)ち曰く「然り。昔者(むかし)、吾が舅、虎に死し、吾が夫、又死し、 今吾が子又死せり」と。子曰く「何為(なんすれ)ぞ去らざるや」と。曰く「苛政(かせい)無ければなり」と。

夫子曰く「小子、之を識(しる)せ、苛政は虎とらよりも猛なり」と。

【大意】孔子が泰山の近くを通りかかった。墓の側で悲しげに泣く婦人がいた。孔子は、車の手すりに手を乗せてうなだれる礼をして、彼女の泣き声に耳を傾け、弟子の子路に「尋常ではない悲しみがおありになるご様子ですが・・・」たずねさせた。婦人は答えた。

「私の義父は先年、虎に殺されました。夫も虎に殺されました。今、とうとう息子まで虎に殺されました」

「なぜこの地を離れないのですか」

「重税がないからです」

 孔子は弟子たちに言った。「覚えておきなさい。重税を課す悪政は、虎より獰猛なのです」。

 

以上