朝日カルチャーセンター 新宿教室 2018/9/24(祝日・月曜)

反乱者たちの中国史 シリーズ乱 第三回 【義和団の乱】

講師 加藤徹 http://www.geocities.jp/cato1963/20180723asahi-culture.html

 

 清の末、1900年に勃発。沸騰するナショナリズムの渦の中で、民衆と国家の中枢が共謀した「反乱」は、20世紀の世界史の流れをも変えた。

 従来、中国の反乱は、個性ゆたかなリーダーと、反乱者なりの組織力があった。また反乱は、現有の政権に対する反乱であった。義和団の乱は、その常識を変えた。日清戦争の敗北後、中国のナショナリズムは沸騰した。民衆は「扶清滅洋(ふしんめつよう)」の旗を立てて外国人を殺した。組織もリーダーもない。怒り狂う民衆暴動の津波に、本来、鎮圧する立場の西太后ら清朝の中枢までもが荷担した。

 義和団の乱は本当に「鎮圧」されたのだろうか? 現代の中国人の心の奥底には、「先進国」に対するドロドロとした感情が、今も残っている。

 

 

★中国社会の5つのネットワーク★

 中国社会を動かす5つのネットワーク「地縁、血縁、職縁、学縁、志縁」

 これらは独立した要素ではなく、互いに結びつきあっている。

 反乱が広まる過程でも、このネットワークが重要な役割を果たす。人体にたとえると、病原体が血管系、リンパ系、神経系などに沿って転移するようなものである。

 

地縁…エスニック集団としての大同団結。

血縁…宗族意識、婚姻関係、民族意識などによる大同団結。

職縁…職種や職業的権益による大同団結。

学縁…学歴や師弟関係による大同団結。

志縁…宗教や思想による大同団結。

 

 中国史の反乱は、「陳勝・呉広の乱」以来、上記のネットワークを利用してきた。後世の反乱は、前代の反乱を参考にして、工夫を重ねてきた。

 志縁ネットワークを例にとると、道教系の太平道、仏教系の白蓮教、その他、マニ教やキリスト教、「マルクス・レーニン教」などが反乱に利用されてきた。儒教系は反乱に利用されなかった(もし、前漢末の王莽による簒奪を「王莽の乱」と見なすならば、儒教系の反乱もあった)

Cf. 『老子』の「小国寡民」の思想と、葛洪(284-364)『抱朴子』詰鮑篇で言及されている鮑敬言(生没年不詳)の「無君論」。

 

 

★中国史の主な反乱★

 「安禄山の乱」「三藩の乱」など、いわゆる「農民反乱」(中国共産党史観では「農民起義」)でないものも含む。

 

秦 陳勝・呉広の乱 前209-208 下層農民・陳勝と呉広→史上初の農民反乱、失敗

新 赤眉の乱 18-27  武将・樊崇→血縁を利用し乱の「軟着陸」に成功

後漢 黄巾の乱 184 太平道の教祖・張角→志縁を利用し「三国志」時代の幕をあける

唐 安史の乱 755-763 「雑胡」の節度使・安禄山→漢民族系と周辺民族の勢力逆転

唐 黄巣の乱 875-884 科挙に落第した塩の密売人・黄巣→唐の滅亡を運命づける

北宋 方臘の乱 1120-1121 「喫菜事魔(マニ教)の徒」方臘→外来の宗教を利用

元 紅巾の乱 1351-66  白蓮教の指導者・韓山童→この流れから明の太祖・朱元璋が出る 

  ケ茂七の乱 1448-1449 福建の農民・ケ茂七→真の意味での農民反乱「抗租運動」の先駆

明 李自成の乱 1631-1645 駅站廃止による失業者・李自成→漢民族系王朝に終止符

清 三藩の乱 1673-1681  漢民族系の藩王・呉三桂→漢民族系の「王」の最後

清 白蓮教徒の乱 1796-1804 白蓮教の指導者・王聡児、姚之富→「八旗」「緑営」の無能を暴露

  天理教徒の乱 1813 天理教(白蓮教の分派。日本の天理教とは無関係)の指導者・林清→小規模だが王朝の中枢に迫った反乱

清 太平天国の乱 1851-64 キリスト教系新興宗教の開祖・洪秀全→西洋系思想と「客家」の影はある意味で孫文らの先駆

清 義和団の「乱」 1900-1901 (反乱の首魁は一人に絞れない。張徳成、黄蓮聖母らが有名)→愛国排外の熱狂の最初

清 「孫文の乱(1911-1912)」と呼ぶ人がいない理由は?

中華民国 「毛沢東の乱(1921-1949)」と呼ぶ人がいない理由は?

中華人民共和国 「チベット・ウイグルの乱」は起きつつあるのか?

 

 

★義和団の乱(義和団事件)について★

 

〇大辞林 第三版の解説

ぎわだんじけん【義和団事件】 18991900年、列強の進出に抗した中国民衆の排外運動。山東に始まった義和団の運動が華北一帯に波及、北京の列国大公使館区域を包囲攻撃するに及び、日・英・米・露・独・仏・伊・墺(おう)連合軍の出兵を招き、鎮圧された。北清事変。団匪事件。

 

〇日本大百科全書(ニッポニカ)の解説 (下線は加藤徹)

義和団事件 ぎわだんじけん

 中国、清(しん)末の1900年に起こった排外的農民闘争北清(ほくしん)事変とも団匪(だんぴ)事件ともいわれる。山東省付近に清の中期から白蓮(びゃくれん)教の分派で義和拳(ぎわけん)という秘密結社があり、彼らは日本の空手(からて)のような拳術を習い、呪文(じゅもん)を唱えると神通力を得て刀や鉄砲にも傷つかないと信じていた。日清戦争(189495)後、列強の侵略は中国を分割の危機にさらし、また安い商品の流入などで農民の生活は破壊された。とくに外国の勢力を後ろ盾にして特権をもったキリスト教の布教は反感を買い、排外的な機運が高まった。義和拳は、教会を焼き、教徒を殺す反キリスト教運動のなかで、多くの破産した農民と結び付き、急速に発展した。

 一方、列強の侵略は、支配層のなかにも守旧派と洋務派という対立集団をつくりだした。守旧派は、従来からの支配者である西太后(せいたいこう)らの満州人貴族層が中心で、洋務派は、列強に頼って新たに力を伸ばしてきた李鴻章(りこうしょう)らの漢人の大官僚が中心であった。守旧派は、義和拳を弾圧しきれないのを知り、逆に利用して列強や洋務派に対抗しようとした。彼らは義和拳を、農村の自衛組織である団練(だんれん)に組み込み、義和団と改称させ半合法化した。義和拳も「扶清滅洋(ふしんめつよう)」(清朝を扶(たす)け、外国を滅ぼす)のスローガンを掲げ、排外を主目的とした。しかし、1899年の末に洋務派の袁世凱(えんせいがい)が山東巡撫(じゅんぶ)に就任すると、義和団は弾圧されたので、河北省に流入し、やがて大運河、京漢(けいかん)鉄道沿線一帯に蔓延(まんえん)するようになった。さらに短期間に華北全省、満州(中国東北部)、蒙古(もうこ)に拡大し、外国人や教会を襲い、鉄道、電信を壊し、石油ランプ、マッチなどあらゆる外国製品を焼き払った清廷の態度は始終動揺したが、守旧派の指導下に義和団利用策をとり、19006月、ついに列強に宣戦を布告した

 北京(ペキン)にまで侵入した義和団は官軍とともに列強の公使館を攻撃し、北京や天津(てんしん)では義和団員が町にあふれ、その発展は頂点に達した。近郊の農村から北京に集まった義和団員は10代の少年が多く、赤や黄色の布を身体に着け、八卦(はっけ)を用いて隊伍(たいご)を分けた。全体的な指導部はなく、町ごとに拳壇(けんだん)を設け、その壇が義和団の単位であり、大師兄(だいしけい)とよばれる宗教的指導者が壇の責任者であった。10代の少女も紅灯照(こうとうしょう)という組織をつくった

 他方、揚子江(ようすこう)以南を支配していた洋務派大官僚は義和団の発展を恐れ、北方からの波及を厳しく取り締まった。このため、北清事変ともいわれるように、運動は中国の北方に限定された。イギリス、ロシア、ドイツ、フランス、アメリカ、日本、イタリア、オーストリアの8か国は連合軍をつくり、大沽(タークー)砲台、天津で官軍と義和団を破り、8月に北京に入城し、籠城(ろうじょう)55日に及んだ公使館員を救出した。西太后と光緒帝(こうしょてい)は西安に逃れ、失脚した守旧派にかわって実権を握った洋務派は、連合軍に協力、義和団の残部を虐殺した。翌1901年、北京議定書(辛丑(しんちゅう)条約)が成立し、中国の植民地化がいっそう深まるとともに、以後、膨大な賠償金の返済に長く苦しむことになった。

 今日の中国では、義和団運動は反帝国主義の輝かしい農民闘争と評価されている。義和団運動がさまざまな後れた点をもっていたとしても、なおその評価は妥当であろう。一方このとき、ちょうど、イギリスはブーア戦争、アメリカはフィリピン独立戦争鎮圧に忙殺されていて中国まで手が回らなかった。そのため結局、ロシア、日本の2国が連合軍の主力になった。日本軍の目覚ましい働きぶりは欧米列強に認められ、以後、日本は「極東の憲兵」の役割、すなわち東アジア人民の民族解放運動を抑え込む武装力としての道を歩むことになる。またロシアは、義和団鎮圧を口実に全満州を軍事占領し、その後も容易に撤兵しなかった。このことが数年後の日露戦争の直接のきっかけになっていった。[倉橋正直]

『スタイガー著、藤岡喜久男訳『義和団』(1967・桃源社) ▽柴五郎・服部宇之吉著『北京籠城他』(平凡社・東洋文庫)』

 

 

★参考図書★

三石善吉『中国、1900年―義和団運動の光芒』 (中公新書、1996)

加藤徹『西太后』 (中公新書、2005)

 

 

★義和団の乱を理解するための周辺的知識★

〇「西洋の衝撃」と「集団舞踏病」…北米先住民のゴースト・ダンス、幕末の「ええじゃないか」、ニューギニアのヴァイララ狂信、清末の義和団運動。いずれも自然発生的なものなので、首謀者や起源はよくわからない。

 

〇健身と「道」…拳法や体操、舞踊など、体を動かすことで身心を研鑽するという宗教は、座学が苦手な民衆にも人気があった。近世・近代の日本では「剣道」が、中国では拳法や気功が「道」の精神性と結びついた。若き日の毛沢東が人生で最初の発表した論文は「体育の研究」である。中国共産党が敵視する「法輪功」も建身、宗教、政治運動を一体化した団体である。

 

〇憑依の宗教…民間宗教の神や歴史上の偉人の霊魂を自分の体に乗り移らせて、トランス状態になり、超人的な力を得る、という宗教は、古代から現代まで中国各地に存在し、民衆の信仰の対象となっている。南中国の「童乩(タンキー。どうけい)」は今も台湾や東南アジアで広くみられる。義和団の乱の時の少女部隊「紅灯照」の面影は、現代の「女乩童」などに見ることができる。

 

〇毓賢(いくけん)方式…義和団の乱は、当初は山東地方の義和拳メンバーによるローカルな暴力的排外運動にすぎなかった。が、山東巡撫だった毓賢(いくけん)は、義和拳の暴力を利用すれば外国人を追い出せると考え、義和拳メンバーの暴力行為を抑止するどころか、義和拳の組織を農民の自治的保安組織「団練」として公認さえしようとした(暴徒の「義和団」化)。民衆の排外暴力行為を政府側が利用する「毓賢方式」は、その後、西太后らも採用し、最終的には「北清事変」という名の戦争にまで発展した。毛沢東が「文化大革命」で紅衛兵を利用したのも、中国政府が2012年の「反日デモ」で日経商店の略奪や破壊をあおったのも、「毓賢方式」の伝統である。

 

以上