朝日カルチャーセンター・千葉教室 2017年5月8日(月)
漢文を楽しむ 担当 加藤 徹
★二十四節気と雑節 雑節は( )内で
(八十八夜 はちじゅうはちや05月02日) 立夏りっか05月05日 小満しょうまん05月21日 芒種ぼうしゅ06月05日 (入梅にゅうばい06月11日) 夏至げし06月21日 (半夏生 はんげしょう07月02日) 小暑しょうしょ07月07日 大暑たいしょ07月23日 (土用どよう07月25日) 立秋りっしゅう08月07日 処暑しょしょ08月23日 (二百十日にひゃくとおか 09月01日) 白露はくろ09月07日
消夏
白居易(772-846)
何以消煩暑 何を以て煩暑を消せん
端居一院中 端居す 一院の中
眼前無長物 眼前 長物無く
窓下有清風 窓下 清風有り
熱散由心静 熱の散ずるは心の静かなるに由る
凉生為室空 凉の生ずるは室の空なる為なり
此時身自得 此の時 身 自ら得たる
難更与人同 更に人と同じうし難し
ショウカ。ハクキョイ。ナニをモッてハンショをショウせん。タンキョす、イチインのウチ。ガンゼン、チョウブツ、ナく、ソウカ、セイフウ、アり。ネツのサンずるはココロのシズかなるにヨる、リョウのショウずるはシツのクウなるがタメなり。コのトキ、ミ、ミズカらエたる、サラにヒトとオナじうしガタし。
【大意】暑苦しさを、どうやってしのいだらよいだろうか。建物の中にきちんと居住まいを正そう。目の前に無駄なものがなくてすっきりすれば、まどべの清らかな風が感じられるようになる。暑さが消えるのは心が静かなおかげ、涼しさが生じるのは部屋か空っぽなせい。今、私が体得しているこの境地を、そのまま他の人に伝えることは難しい。
【注】「消夏」は「銷夏」とも書く。夏の暑さをしのぐ、という意。「窓下有清風」は、日本でも茶室の掛け軸などでよく見かける名句。「熱散由心静」は、現代中国では「心静自然涼」(心、静かなれば自然と涼し)と言いかえて使われることが多い。
xiao1
xia4 Bai2 Ju1yi4
he2
yi3 xiao1 fan2 shu3 , duan1 ju1 yi1 yuan4 zhong1.
yan3
qian2 wu2 chang2 wu4 , chuang1 xia4 you3 qing1 feng1.
re4
san4 you2 xin1 jing4 , liang2 sheng1 wei4 shi4 kong4.
ci3
shi2 shen1 zi4 de2 , nan2 geng4 yu3 ren2 tong2.
夜宿山寺
李白(701-762)
危楼高百尺 危楼 高さ百尺
手可摘星辰 手 星辰を摘むべし
不敢高声語 敢て高き声で語らず
恐驚天上人 恐らくは天上の人を驚かさん
ヨル、ヤマのテラにシュクす。リハク。キロウ、タカさヒャクシャク。テ、セイシンをツむべし。アエてタカきコエでカタらず。オソらくはテンジョウのヒトをオドロかさん。
【大意】目もくらむような楼(たかどの)は、高さが百尺。手を伸ばせば、夜空の星をつかみ取れそうなほど。あえて高い声で話さない。天の上に住む人を驚かせてしまうかもしれないから。
【注】李白が江心寺(現在の湖北省黄岡市黄梅県蔡山鎮にある「蔡山寺」)で詠んだ五言絶句と伝えられている。別の本では「題峰頂寺」というタイトルで、「夜宿峰頂寺、挙手捫星辰。不敢高声語、恐驚天上人」に作る本もある。後半の二行は同じだが、前半の二行は「夜、峰頂の寺に宿す。手を挙ぐれば星辰を捫(な)づ」と違っている。
ye4
su4 shan1 si4 Li3 Bai2
wei1
lou2 gao1 bai3 chi3, shou3 ke3 zhai1 xing1 chen2.
bu4
gan3 gao1 sheng1 yu3, kong3 jing1 tian1 shang4 ren2.
無題
鲁迅(1881-1936)
万家墨面没蒿萊 万家 墨面して藁莱に没す
敢有歌吟動地哀 敢て歌吟の地を動かして哀しむ有らんや
心事浩茫連広宇 心事 浩茫として広宇に連なり
於無声処聴驚雷 声無き処に於て驚雷を聴く
ムダイ。ロジン。バンカ、ボクメンしてコウライにボッす。アエてカギンのチをウゴかしてカナしむアらんや。シンジ、コウボウとしてコウウにツラなり、コエ、ナきトコロにオイてキョウライをキく。
多くの家の、墨のように黒くやつれた顔が、雑草に埋もれている。もはや、大地をゆるがす呻吟や悲歌慷慨の声すらも、聞こえない。胸の内の思いは果てしない空間へとつながり、声のないところで驚くべき雷鳴に耳を傾ける。
【注】近代中国の作家・魯迅が、1934年5月30日に友人に書き与えた漢詩。「声なきところに驚雷を聴く」は、「悪政に苦しむ人民は怨嗟の声をあげる自由も与えられていないが、人民の声なき声に耳をかたむけると、驚くべき雷鳴が聞こえる」という意味。宮沢賢治の詩のタイトル「無声慟哭」と似た、逆説的な表現。この魯迅の漢詩は、李商隠の七言絶句「瑤池」(瑤池阿母綺窓開、黄竹歌声動地哀。八駿日行三万里、穆王何事不重来。)と、穆王が人民の苦しみを代弁して「黄竹詩」を詠んだ故事をふまえる。
wu2
ti2 Lu3 Xun4
wan4
jia1 mo4 mian4 mei2 hao1 lai2 , gan3 you3 ge1 yin2 dong4 di4 ai1 。
xin1
shi4 hao4 mang2 lian2 guang3 yu3 , yu2 wu2 sheng1 chu4 ting1 jing1 lei2 。
夏至日作
権徳輿(759-818)
璿枢無停運 璿枢 停運すること無く
四序相錯行 四序 相 錯行す
寄言赫曦景 言を寄す 赫曦の景に
今日一陰生 今日 一陰 生ず
ゲシのヒのサク。ケントクヨ。センスウ、テイウンすることナく、シジョ、アイ、サクコウす。ゲンをヨす、カクギのケイに。コンニチ、イチイン、ショウず。
【大意】天然の大時計である北斗七星は運行をやめず、春夏秋冬の四季はかわるがわるめぐり行く。ギラギラと輝く太陽にむかって、申し上げる。陽の気の頂点である今日、陰の気が生じました。
【注】わざと難解で抽象的な語をちりばめ、絶頂の瞬間は没落の開始でもある、という哲理を述べた詩。「璿枢」は「璇枢」とも書く。「璇」は北斗七星の第2星、「枢」は北斗七星の第1星を指す。「四序」は四季、「錯行」は四季が「交互にめぐる」。「曦」は一字では朝の太陽の光を指すが、「赫曦」はギラギラと暑い様子、「曦景」は太陽の光。「一陰」は「易」の用語。「一陰一陽」という成語もある。
xia4
zhi4 ri4 zuo4 Quan2 De2yu2
xuan2
shu1
wu2 ting2 yun4,si4 xu4 xiang1 cuo4 xing2.
ji4 yan2 he4 xi1 jing3,jin1 ri4 yi1 yin1 sheng1.
百ケ岡284
原采蘋(1798-1859)
巌邑水郷觸眼清 巌邑の水郷 眼に触れて清し
如何勝地欠詩盟 如何ぞ 勝地 詩盟を欠く
燈窓寂寂唯要睡 燈窓 寂寂として 唯だ睡るを要す
辜負風流百首名 辜負す 風流 百首の名285
ヒャクガオカ。ハラサイヒン。ガンユウのスイゴウ、メにフれてキヨし。イカンぞ、ショウチ、シメイをカく。トウソウ、セキセキとして、タだネムるをヨウす。コフす、フウリュウ、ヒャクシュのナ。
【大意】戦国時代の戦さでは堅固だった村里の水郷の景色は、目で見ると清らかである。せっかくの景勝地なのに、漢詩の愛好会がないとは、どうしたことか。私は、各地の漢詩人との交流を楽しみながら旅行しているが、今夜は漢詩を詠みあう相手もなく、寂しく寝るだけ。風流な伝承をもつ百首城の名に、そむいている。
【注】原采蘋は、男装の女流漢詩人。この漢詩は、彼女が房総を旅して、千葉県富津市竹岡にあった造海城(つくろうみじょう)、別名「百首城」付近に宿泊したときに詠んだ七言絶句。『東遊漫草』に収録。以下、小谷喜久江「遊歴の漢詩人原采蘋の生涯と詩 ―
孝と自我の狭間で ―」(日本大学大学院総合社会情報研究科 博士後期課程 総合社会情報専攻 平成25年度)より引用。
(引用開始)百首岡は現在の竹岡286。ここには竹ヶ岡陣屋がおかれ、羽倉簡堂が海防の任にあたっていた。天保十二年に梁川星巌はここに羽倉簡堂を訪ね、七言絶句を贈っている287。采蘋はここで医者の乃木文廸を訪ねている。(中略)
284
山田新一郎本では「百首岡」となっている。
285
文明三年、里見義成が造海城を攻めた時に百首の和歌を作って城将に贈ったところ、城将は即座に開城をしたことから造海城を改め百首城となった。
286
中世の百首城跡
287
鶴岡節雄『房総文人散歩・梁川星巌篇』千秋社、1977 参照。(引用終了)
以下「造海城(百首城・富津市竹岡字城山)」
(http://otakeya.in.coocan.jp/info01/hyakushu.htm 2017-5-7閲覧)より引用。
(引用開始)この城を別名百首城というのには次のような伝承がある。「里見代々記」などの軍記によると、里見義実・成義父子は、武田信隆・信政の籠もるこの城を攻撃した。武田氏は抵抗しきれず落城しかかったが、ただ城を明け渡すのも悔しいので「この周辺の景色を呼んだ歌を百首詠むことができたら城を明け渡す」という条件を出した。里見方はたちどころに詠んだので城は開城したという。しかし、この話は内容も年代もいかにも怪しい。「房総里見誌」には「昔、この地に杉を植林し、後、百本の杉に一首ずつ歌を詠んでぶら下げ、太平安堵を祈ったことによりこの地を百首と称することとなった」とあるというが、こちらの方が本当のような気がする。しかし、いずれにせよ、この話は軍記や伝承によるもので、真実であったとは言い切れない。その他にも、かつてこの城からは多くの遺骸が発掘されており、「百人の首をさらした」ことが「百首城」の名の由来であるという説もあるようだ。このうちどれが真実であったものか。(引用終了)
中庸
元田永孚(1818-1881)
勇力男児斃勇力 勇力の男児は勇力に斃れ
文明才子醉文明 文明の才子は文明に醉ふ
勧君須択中庸去 君に勧む 須からく中庸を択びて去くべし
天下万機帰一誠 天下の万機は一誠に帰す
チュウヨウ。モトダエイフ(モトダナガザネ)。ユウリョクのダンジはユウリョクにタオれ、ブンメイのサイシはブンメイにヨう。キミにススむ、スベからくチュウヨウをエラびてユくべし。テンカのバンキはイッセイにキす。
【大意】勇猛な男児は勇猛さゆえに死に、文明の才子は文明に中毒する。君に忠告する、中庸を選んでゆきなさい。天下の全ての事は、結局はただひとつ、誠ということに帰着する。
【注】元田永孚は儒学者で「教育勅語」の起草者としても有名。旧仮名遣いでは、「斃る」は「たふる」、「酔ふ」は「ゑふ」で、現代仮名遣いに機械的に直すとそれぞれ「たうる」「えう」になるが、ここでは「たおる」「よう」と読んでおく。