朝日カルチャーセンター 新宿教室 2017年3月27日(月)
三国志 個性豊かなヒーローたち「趙雲 日本では絶大な人気だが」 加藤 徹
★日本で特に人気が高い英雄。
例 『はじめての三国志・第1回目 武将投票ランキング』
趙雲ってどんな人?|投票ランキング1位の理由2015/6/15
https://hajimete-sangokushi.com/2015/06/15/post-3270/
★頼山陽「詠三国人物十二絶句」より「趙雲」
七尺彭亨胆満身 七尺の彭亨 胆 身に満つ
誰知鎧縫舎郎君 誰か知らん 鎧縫 郎君を舎すを
刀辺一塊収龍肉 刀辺 一塊 龍肉を収め
留続岷峨半段雲 留続す岷峨半段の雲
シチセキのホウコウ、タン、ミにミつ。タレかシらん、ガイホウ、ロウクンをヤドすを。トウヘン、イッカイ、リュウニクをオサめ、リュウゾクす、ビンガ、ハンダンのクモ。
郎君、龍肉=劉備の息子・阿斗(劉禅)を指す。
岷峨=岷山と峨眉山。蜀漢の国土の山。
[大意]
七尺の堂々たる体躯をもつ趙雲は、全身これ胆、という剛胆な英雄だ。長坂の戦いのとき、まだ赤ん坊だった阿斗は、乱戦の戦場の中で行方不明になった。趙雲はひそかに、鎧(よろい)のすきまに阿斗をおさめた。彼は、刀がきらめく戦場から、主君である劉備の血を引く小さな赤子を救い出した。その赤子は成長し、後に蜀漢の二代目の皇帝となり、風雲の志を引き継いだ。
[評]最後の「雲」は、「蜀犬、日に吠ゆ」と言われた蜀の雲と、趙雲の名にかけている。
「趙雲が膝であどなく伸びをする」柳多留43篇
「戦いのひまに趙雲子守り唄」145篇
★趙雲に関する歇後語(けつごご)。張飛の歇後語と比べると数は少なく内容も直球。
(一) 长坂坡上的赵子龙 - 单枪匹马
長坂の戦いでの趙子龍。そのココロは、ただ一騎で敵陣に切り込む(他人の力を借りず単独で行動する)
(二) 对着赵云摔阿斗 - 收买人心
(劉備が)趙雲に向かって(わが子の)阿斗を(草むらに)投げつける。そのココロは、人心を買う。
(三) 赵云大战长坂坡 - 大显神威
趙雲が長坂で奮戦する。そのココロは、大いに神威をあらわす。
(四) 赵子龙出兵 - 回回胜
趙子龍が出兵する。そのココロは、毎回勝つ。
(五) 赵子龙上阵 - 百战百胜;单枪匹马
趙子龍が出陣する。そのココロは、百戦百勝。もしくは、ただ一騎で敵陣に切り込む(他人の力を借りず単独で行動する)
★吉川英治の小説『三国志』赤壁の巻より
青空文庫では http://www.aozora.gr.jp/cards/001562/files/52415_51066.html
「オッ、趙雲ではないか。――して、そのふところに抱えているのは何か」
「阿斗公子(あとこうし)です……」
「なに、わが子か」
「おゆるし下さい。……面目次第もありません」
「何を詫びるぞ。さては、阿斗は途中で息が絶えたか」
「いや……。公子のお身はおつつがありません。初めのほどは火のつくように泣き叫んでおられましたが、もう泣くお力もなくなったものとみえまする。……ただ残念なのは糜夫人(びふじん)のご最期です。身に深傷(ふかで)を負うて、お歩きもできないので、それがしの馬をおすすめ申しましたが、否とよ、和子を護ってたもれと、ひと声、仰せられながら、古井戸に身を投げてお果て遊ばしました」
「ああ、阿斗に代って、糜は死んだか」
「井には、枯れ草や墻(かき)を投げ入れて、ご死骸を隠して参りました。その母の御霊(みたま)が公子を護って下されたのでしょう、それがしただ一騎、公子をふところに抱き参らせ、敵の重囲を駆け破って帰りましたが、これこのとおりに……」
と、甲(よろい)の胸当を解いて示すと、阿斗は無心に寝入っていて、趙雲の手から父玄徳の両手へ渡されたのも知らずにいた。
玄徳は思わず頬ずりした。あわれよくもこの珠の如きものに矢瘡(やきず)ひとつ受けずにと……われを忘れて見入りかけたが、何思ったか、
「ええ、誰なと拾え」
と云いながら、阿斗の体を、毱(まり)のように草むらへほうり投げた。
「あっ、何故に?」
と、趙雲も諸大将も、玄徳のこころをはかりかねて、泣きさけぶ公子を、大地からあわてて抱き取った。
「うるさい、あっちへ連れて行け」
玄徳は云った。
さらにまた云った。
「思うに、趙雲のごとき股肱(ここう)の臣は、またとこの世で得られるものではない。それをこの一小児のために、危うく戦死させるところであった。一子はまた生むも得られるが、良き国将はまたと得がたい。……それにここは戦場である。凡児の泣き声はなおさら凡父の気を弱めていかん。故にほうり捨てたまでのことだ。諸将よ、わしの心を怪しんでくれるな」
「…………」
趙雲は、地に額(ひたい)をすりつけた。越えてきた百難の苦も忘れて、この君のためには死んでもいいと胸に誓い直した。原書三国志の辞句を借りれば、この勇将が涙をながして、
(肝脳(かんのう)地にまみるとも、このご恩は報じ難し)
と、再拝して諸人の中へ退(さ)がったと誌(しる)してある。
★日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
※引用文中のABC…などの区分けや、改行の追加は、加藤徹が行いました。
趙雲 ちょううん(?―229)
A 中国、三国蜀(しょく)の武将。字(あざな)は子龍(しりょう)。常山(じょうざん)郡真定(しんてい)県(河北(かほく)省正定県)の人。
B はじめ後漢(ごかん)の公孫●(こうそんさん)に仕え、公孫●の将として袁紹(えんしょう)との戦いに派遣された劉備(りゅうび)に、主騎(しゅき)として従った。
※●は「王」へんの右横に「賛」の旧字体。[王+(先/先)貝]。瓚。
C そののち、改めて劉備に仕え、「劉備と同じ床で眠った」という。関羽(かんう)・張飛(ちょうひ)に匹敵する待遇を受けたのである。
D 荊州(けいしゅう)で曹操(そうそう)に敗れた際には、単身で敵軍の真っただ中に駆けこみ、長坂坡(ちょうはんは)で逃げ遅れた阿斗(あと)(のちの劉禅(りゅうぜん))とその生母の甘(かん)夫人を救いだし、牙門(がもん)将軍に昇進した。
E 入蜀時には、諸葛亮(しょかつりょう)(孔明(こうめい))とともに劉備を助け、
F 漢中(かんちゅう)争奪戦では曹操の大軍を門を開けて迎え撃ち、劉備から称賛された。軍中では、趙雲を「虎威(こい)将軍」とよんだという。
G また、劉備が関羽のために呉(ご)を討とうとするのをとどめた。
H 諸葛亮の第一次北伐に従って、おとりの軍として箕谷(きこく)に進出、主力軍と勘違いをして大軍を派遣した曹真(そうしん)に敗れた。しかし、自らが殿(しんがり)軍となったため、軍需物資をほとんど捨てず、将兵はまとまりをなくさず撤退できた。軍需物資の絹を将兵に分け与えようとした諸葛亮に、「敗戦の際に下賜をすべきではない」と述べ、敗戦の責任を明らかにした。
I 至誠に貫かれた趙雲の生涯は、『三国志演義』ではさらに高く評価され、五虎(ごこ)将軍の一人とされている。[渡邉義浩]
『渡邉義浩著『「三国志」武将34選』(PHP文庫)』
★正史『三国志』蜀志巻六の趙雲の条の原文
ここでは漢文の原文のみを掲げます。日本語訳は、書籍では、ちくま学芸文庫『正史 三国志』全八巻その他で、ネットでは「漢籍漢訳プロジェクト IMAGINE」の中のhttp://www.project-imagine.org/search2.cgi?text=shu6-5;lang=JpCh 等で読めます。
漢文の右横の傍線は、加藤徹が引いたものです。また、太いゴチック体の部分は陳寿が書いた正史の本文で、そうでない部分は裴松之による注です。
A 趙雲字子龍、常山眞定人也。 B 本屬公孫瓚、瓚遣先主與田楷拒袁紹、雲遂隨從、為先主主騎。[一] D 及先主為曹公所追於當陽長阪、棄妻子南走、雲身抱弱子、卽後主也、保護甘夫人、卽後主母也、皆得免難。遷為牙門將軍。先主入蜀、雲留荊州。[二]
[一] 雲別傳曰:AB 雲身長八尺、姿顏雄偉、為本郡所擧、將義從吏兵詣公孫瓚。時袁紹稱冀州牧、瓚深憂州人之從紹也、善雲來附、嘲雲曰:「聞貴州人皆願袁氏、君何獨迴心、迷而能反乎?」雲答曰:「天下訩訩、未知孰是、民有倒縣之厄、鄙州論議、從仁政所在、不為忽袁公私明將軍也。」遂與瓚征討。時先主亦依託瓚、每接納雲、雲得深自結託。雲以兄喪、辭瓚暫歸、先主知其不反、捉手而別、雲辭曰:「終不背コ也。」 C 先主就袁紹、雲見於鄴。先主與雲同牀眠臥、密遣雲合募得數百人、皆稱劉左將軍部曲、紹不能知。遂隨先主至荊州。
[二] D 雲別傳曰:初、先主之敗、有人言雲已北去者、先主以手戟擿之曰:「子龍不棄我走也。」頃之、雲至。從平江南、以為偏將軍、領桂陽太守、代趙範。範寡嫂曰樊氏、有國色、範欲以配雲。雲辭曰:「相與同姓、卿兄猶我兄。」固辭不許。時有人勸雲納之、雲曰:「範迫降耳、心未可測;天下女不少。」遂不取。範果逃走、雲無纖介。先是、與夏侯惇戰於博望、生獲夏侯蘭。蘭是雲ク里人、少小相知、雲白先主活之、薦蘭明於法律、以為軍正。雲不用自近、其愼慮類如此。先主入益州、雲領留營司馬。此時先主孫夫人以權妹驕豪、多將吳吏兵、縱不法。先主以雲嚴重、必能整齊、特任掌內事。權聞備西征、大遣舟船迎妹、而夫人內欲將後主還吳、雲與張飛勒兵截江、乃得後主還。
E 先主自葭萌還攻劉璋、召諸葛亮。亮率雲與張飛等倶泝江西上、平定郡縣。至江州、分遣雲從外水上江陽、與亮會于成都。成都旣定、以雲為翊軍將軍。[一]建興元年、為中護軍﹑征南將軍、封永昌亭侯、遷鎮東將軍。 H 五年、隨諸葛亮駐漢中。明年、亮出軍、揚声由斜谷道、曹眞遣大眾當之。亮令雲與ケ芝往拒、而身攻祁山。雲﹑芝兵弱敵彊、失利於箕谷、然斂眾固守、不至大敗。軍退、貶為鎮軍將軍。[二]
[一] E 雲別傳曰:益州旣定、時議欲以成都中屋舍及城外園地桑田分賜諸將。雲駮之曰:「霍去病以匈奴未滅、無用家為、令國賊非但匈奴、未可求安也。須天下都定、各反桑梓、歸耕本土、乃其宜耳。益州人民、初罹兵革、田宅皆可歸還、今安居復業、然後可役調、得其歡心。」先主卽從之。 F 夏侯淵敗、曹公爭漢中地、運米北山下、數千萬囊。黃忠以為可取、雲兵隨忠取米。忠過期不還、雲將數十騎輕行出圍、迎視忠等。値曹公揚兵大出、雲為公前鋒所擊、方戰、其大眾至、勢偪、遂前突其陳、且鬭且卻。公軍敗、已復合、雲陷敵、還趣圍。將張著被創、雲復馳馬還營迎著。公軍追至圍、此時沔陽長張翼在雲圍內、翼欲閉門拒守、而雲入營、更大開門、偃旗息鼓。公軍疑雲有伏兵、引去。雲雷鼓震天、惟以戎弩於後射公軍、公軍驚駭、自相蹂踐、墮漢水中死者甚多。先主明旦自來至雲營圍視昨戰處、曰:「子龍一身都是膽也。」作樂飲宴至暝、軍中號雲為虎威將軍。 G 孫權襲荊州、先主大怒、欲討權。雲諫曰:「國賊是曹操、非孫權也、且先滅魏、則吳自服。操身雖斃、子丕簒盜、當因眾心、早圖關中、居河﹑渭上流以討凶逆、關東義士必裹糧策馬以迎王師。不應置魏、先與吳戰;兵勢一交、不得卒解。」先主不聽、遂東征、留雲督江州。先主失利於秭歸、雲進兵至永安、吳軍已退。
[二] H 雲別傳曰:亮曰:「街亭軍退、兵將不復相錄、箕谷軍退、兵將初不相失、何故?」芝答曰:「雲身自斷後、軍資什物、略無所棄、兵將無緣相失。」雲有軍資餘絹、亮使分賜將士、雲曰:「軍事無利、何為有賜?其物請悉入赤岸府庫、須十月為冬賜。」亮大善之。
七年卒、追諡順平侯。
初、先主時、惟法正見諡;後主時、諸葛亮功コ蓋世、蔣琬﹑費禕荷國之重、亦見諡;陳祗寵待、特加殊奨、夏侯霸遠來歸國、故復得諡;於是關羽﹑張飛﹑馬超﹑龐統﹑黃忠及雲乃追諡、時論以為榮。[一]雲子統嗣、官至虎賁中カ、督行領軍。次子廣、牙門將、隨姜維沓中、臨陳戰死。
[一] 雲別傳載後主詔曰:「雲昔從先帝、功積旣著。朕以幼沖、渉塗艱難、ョ恃忠順、濟於危險。夫諡所以敘元勳也、外議雲宜諡。」大將軍姜維等議、以為雲昔從先帝、勞績旣著、經營天下、遵奉法度、功效可書。當陽之役、義貫金石、忠以衞上、君念其賞、禮以厚下、臣忘其死。死者有知、足以不朽;生者感恩、足以殞身。謹按諡法、柔賢慈惠曰順、執事有班曰平、克定禍亂曰平、應諡雲曰順平侯。
以下、http://www.project-imagine.org/search2.cgi?text=shu6-5;lang=JpCh よりFの部分の日本語訳を引用します(2017年3月26日閲覧。引用文中の「曹公」は曹操、「先主」は劉備を指す)。
(引用開始) 夏侯淵が敗北すると、曹公は漢中の地を争い、北山の麓に運んだ軍糧米は数千万囊もあった。黄忠は奪うべしと主張し、趙雲の軍勢も黄忠に随行して軍糧米を奪いに行った。
黄忠が期限を過ぎても帰って来なかったので、趙雲は数十騎を率いて軽装で陣営を出て、黄忠らの様子を出迎えて見ようとした。そのとき曹公が軍勢を催して大々的に出てきた。趙雲は曹公の先鋒の攻撃を受け、まさに戦おうとしたとき彼らの大軍が到達し、情勢は差し迫っていた。(趙雲は)そのまま前進して敵陣に突撃し、闘いながら退いた。
曹公の軍は敗れたが、またもや集合して(勢力を盛り返して)しまった。趙雲は敵勢を陥れたので帰還して陣営に到着したが、将軍張著が負傷して(動けなくなって)いたので、趙雲はふたたび馬を駆って(敵の)陣営に戻り、張著を迎え入れた。曹公の軍勢は追撃して(趙雲の)陣営まで到達した。
このとき沔陽県長の張翼が趙雲の陣営内におり、張翼は門を閉ざして防ぎ守ろうとしていたが、趙雲は陣営に入ると更に大きく開門させ、旗を伏せ太鼓を止めさせた。曹公の軍勢は趙雲に伏兵があるのではないかと疑い、引き払った。趙雲は太鼓を轟かせて天を震わせ、ひたすら戎弩で曹公の軍勢を背後から射たので、曹公の軍勢は驚き、味方同士で踏み付け合ったり、漢水の中に落ちたりして死ぬ者が非常に多かった。
先主は明朝、自ら趙雲の陣営を訪れて、昨日の戦いの場所を視察し、「子龍は一身すべてが胆だ」と言った。宴会で酒を飲んで歓楽を催し、(それは)日暮れまで続き、軍中では趙雲を虎威将軍と呼ぶようになった。(引用終了)
以上
http://www.geocities.jp/cato1963/sangokushi20160704.html
http://www.geocities.jp/cato1963/stdnt.html