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朝日カルチャーセンター 千葉       平成28年7月22日(旧暦六月十九日)
担当 加藤 徹
 
               二十四節気
季夏 晩秋  旧暦六月 小暑 7月7日 大暑 7月22日
孟秋
仲秋
初秋
中秋
 旧暦七月
 旧暦八月
立秋 8月7日
白露 9月7日
処暑 8月23日
秋分 9月22日
 
  聚楽懐古
摩島長弘(1791〜1839)
恨望萋萋春草繁  恨望すれば 萋萋として 春草 繁し
無人芳樹護壊垣  人 無くして 芳樹 壊垣を護る
機声伊軋斜陽裏  機声 伊だ軋る  斜陽の裏
猶傍桃花織夢魂  猶ほ桃花に傍ひて 夢魂を織るがごとし
 
 ジュラクカイコ。マシマ ナガヒロ。コンボウすれば サイサイとして シュンソウ シゲし。ヒト ナくして ホウジュ カイエンをマモる。キセイ タだキシる シャヨウのウチ、ナお トウカにソいて ムコンをオるがごとし。
 
【注】〇聚楽…聚楽第((じゅらくてい、じゅらくだい、じゅらくやしき)。天正十五年(1587)完成。文禄四年(1595)、豊臣秀次の死の直後に秀吉によって徹底的に破壊された。【参考】の『明史』の記載も参照。〇摩島長弘…摩島助太郎。京都の漢詩人。〇恨望…「怨望」「怨恨」に同じ。〇機声…はたを織る音。〇桃花…「安土桃山時代」の「桃山」(豊臣秀吉の居城だった伏見城の跡地は、江戸時代に「桃山」と呼ばれた)にかけた言葉。
 
 
  遊石巻
伊達政宗(1567〜1636)
青天涵碧海  青天 碧海を涵し
碧海接青天  碧海 青天に接す
海外更無海  海外 更に海 無く
向天莫問天  天に向ひ 天に問ふ莫し
 
 イシノマキにアソぶ。ダテ マサムネ。セイテン ヘキカイにヒタし、ヘキカイ セイテンにセッす。カイガイ サラにウミ ナく、テンにムカい、テンにトうナし。
 
【注】〇石巻…現在の宮城県石巻市。伊達政宗の命を受けてヨーロッパに向かった、支倉常長ら慶長使節の船は、石巻市月浦(つきのうら)から出帆した。
 
  江村
杜甫(712〜770)
清江一曲抱村流  清江 一曲 村を抱きて流る
長夏江村事事幽  長夏 江村 事事に幽かなり
自去自来梁上燕  自ら去り自ら来る 梁上の燕
相親相近水中?  相ひ親しみ相ひ近づく 水中の?
老妻画紙為棋局  老妻 紙に画きて棋局と為し
稚子敲針作釣鉤  稚子 針を敲きて 釣鉤と作す
多病所須唯薬物  多病 須ふる所は唯だ薬物のみ
微躯此外更何求  微? 此の外に更に何をか求めん
 
 コウソン。トホ。セイコウ イッキョク ムラをイダきてナガる。チョウカ コウソン ジジにシズかなり。オノズカらサり オノズカらキタる リョウジョウのつばめ、アいシタしみアいチカづく スイチュウのカモメ。ロウサイ カミにエガきて キキョクとナし、チシ ハリをタタきて チョウコウとナす。タビョウ モチうるトコロは タだヤクブツのみ。ビク コのホカに サラにナニをかモトめん。
 
【注】〇江村…川ぞいの村。この詩は西暦760年、杜甫四十九歳の夏、杜甫が成都郊外の「浣花溪」のほとりに「草堂」を建てたときの作。〇長夏…日が長い夏の盛りを指す語。陰暦六月を指す場合もある。〇梁上燕…はりのうえの、仲の良いつがいのツバメ。〇水中?…川の青い水を背景にくっきりと見える白い水鳥。海のカモメではない。警戒心が強いはずの水鳥も、人間に近寄ってくるほど、のどかな田舎の光景。〇棋局…碁盤。〇多病所須唯薬物…『全唐詩』では「但有故人供禄米(但だ故人の禄米を供する有れば。タだコジンのロクマイをキョウするアれば)」に作る。
(jiang1cun1. du4 fu3) qing1 jiang1 yi1 qu3 bao4 cun1 liu2, chang2 xia4 jiang1 cun1 shi4 shi4 you1。zi4 qu4 zi4 lai2 liang2 shang4 yan4,xiang4 qin1 xiang4 jin4 shui3 zhong1 ou1。lao3 qi1 hua4 zhi3 wei2 qi2 ju2,zhi4 zi3 qiao1 zhen1 zuo4 diao4 gou1。duo1 bing4 suo3 xu1 wei2 yao4 wu4,wei1 qu1 ci3 wai4 geng1 he2 qiu29?
 
 
  倦夜
杜甫
竹涼侵臥内  竹涼は臥内を侵し
野月満庭隅  野月は庭隅に満つ
重露成涓滴  重露 涓滴を成し
稀星乍有無  稀星 乍ちに有無
暗飛蛍自照  暗きに飛ぶ蛍は自ら照し
水宿鳥相呼  水に宿る鳥は相呼ぶ
万事干戈裏  万事は干戈の裏
空悲清夜徂  空しく悲しむ 清夜の徂くを
 ケンヤ。トホ。チクリョウはガダイをオカし、ヤゲツはテイグウにミつ。チョウロはケンテキをナし、キセイはタチマちにウム。クラきにトぶホタルはミズカらテラし、ミズにヤドるトリはアイヨぶ。バンジはカンカのウチ、ムナしくカナしむ セイヤのユくを。
 
【注】西暦764年、杜甫が五十三歳の初秋、草堂で詠んだ五言律詩。安史の乱(755〜763)の余波で、当時は各地でまだ騒乱が多発していた。〇倦夜…倦怠感で寝付かれない夜。〇竹涼…竹林の涼気。〇侵臥内…寝床の中にまで侵入して来る。〇涓滴…水の小さなしずく。首句の「竹」と対応する。〇稀星…まばらにしか見えない星。第二句の「月」と対応する。〇乍有無…月の光の増減によって、まばらな小さな星がかすれて見えたり、見えなくなったりする。〇干戈…タテとホコ。転じて、武器全般や戦争を指す。ここでは、天下の戦乱が依然として続いていることを指す。
 
(juan4 ye4. du4 fu3) zhu2 liang2 qin1 wo4 nei4, ye3 yue4 man3 ting2 yu2。chong2 lu4 cheng2 juan1 di1, xi1 xing1 zha4 you3 wu2。 an4 fei1 ying2 zi4 zhao4, shui3 su4 niao3 xiang4 hu1。 wan4 shi4 gan1 ge1 li3, kong1 bei1 qing1 ye4 cu2。
 
石の香や夏草赤く露暑し  松尾芭蕉(1644〜1694)
 
  妙雲寺観瀑
夏目漱石(1867〜1916)
蕭條古刹倚崔嵬  蕭条たる古刹 崔嵬に倚る
溪口無僧坐石苔  渓口 僧の石苔に坐する無し
山上白雲明月夜  山上の白雲 明月の夜
直為銀蟒仏前來  直ちに銀蟒と為りて 仏前に来たる
 
 ミョウウンジにてタキをミる。ナツメソウセキ。ショウジョウたるコサツ、サイカイにヨる。ケイコウ ソウのセキタイにザするナし。サンジョウのハクウン メイゲツのヨル、タダちにギンボウとナりて ブツゼンにキたる。
 
【注】〇妙雲寺…栃木県那須塩原市にある寺。「常楽の瀧」がある。大正元年(1912)八月、漱石は避暑のため塩原に遊んだ。現在、妙雲寺にこの漢詩を記した詩碑がある。「湯壺から首丈出せば野菊哉」という句碑もある。〇崔嵬…岩や石がごろごろ重なっている。〇銀蟒…銀色のウワバミ、大きな蛇。
 
 
【参考】『明史』「日本伝」より、豊臣秀吉の条
 日本故有王、其下称関白者最尊、時以山城州渠信長為之。偶出猟、遇一人臥樹下。驚起衝突。執而詰之。自言「為平秀吉、薩摩州人之奴」。雄健?捷、有口弁。信長ス之、令牧馬、名曰「木下人」。後漸用事、為信長画策、奪並二十余州、遂為摂津鎮守大将。
 日本にはもと王あり、そのしたに関白と称する者ありて最も尊し。時に山城州のかしら、信長をもってこれと為す。 たまたま猟にいで、一人の樹下にガするものにあう。驚起して衝突す。とらえてこれをなじる。みずから言う 「たいらの秀吉、薩摩州の人のやっこたり」と。ユウケンキョウショウにして口弁あり。信長、これをよろこび、馬をボクせしめ、名づけて「木下人」という。のちにようやく事を用う。信長のために画策し、二十余州をあわす。ついに摂津の鎮守大将となる。
 
 有参謀阿奇支者、得罪信長。命秀吉統兵討之。俄信長為其下明智所殺、秀吉方攻滅阿奇支、聞変、与部将行長等乗勝還兵誅之。威名益振。尋廃信長参子、僭称関白、尽有其衆、時為万暦十四年。
 参謀のアケチなるものあり、罪を信長に得たり。秀吉に命じて兵をすべ、これを討たしむ。にわかにして信長、そのしもの明智の殺すところとなる。秀吉、まさにアケチを攻め滅ぼす。ヘンを聞き、部将の行長らと勝ちに乗じて兵をかえしてこれをチュウす。威名ますますふるう。ついで信長の三子を廃し、関白をセンショウし、ことごとくその衆をユウす。ときにバンレキ十四年なり。
 
 於是益治兵、征服六十六州、又以威脅琉球、呂宋、暹羅、仏郎機諸国、皆使奉貢。乃改国王所居山城為大閣、広築城郭、建宮殿。其楼閣有至九重者、実婦女珍宝其中。其用法厳、軍行有進無退、違者雖子婿必誅、以故所向無敵。
 ここにおいてますます兵をおさめ、六十六州を征服し、また威をもってリュウキュウ、ルソン、シャム、フランキの諸国をおびやかし、みなホウコウせしむ。すなわち国王のおるところの山城を改めてタイコウをつくり、広くジョウカクをきずき、宮殿をたつ。そのロウカク九重にいたるものありて、フジョチンポウをそのうちにみたす。その法をもちうるにゲン、グンコウはすすむ有りてしりぞくこと無し。たがうものはシセイといえどもかならずチュウす。ゆえをもって、むかうところ敵なし。
 
 乃改元文禄、並欲侵中国、滅朝鮮而有之。
 すなわち文禄と改元し、ならびに中国をおかし、朝鮮を滅ぼしてこれをユウせんとほっす。(以下略)
 
 
【参考】朝鮮の李?(1681〜1763)『星湖?説』における豊臣秀吉評
 以此観之、秀吉亦有許大力量、非庸人也。起自島夷、越海与大邦作仇、其勢必敗。若使生於中国恣行其胸臆、未必不成。(此を以て之を観るに、秀吉亦た許大の力量有り、庸人に非ざるなり。 島夷より起ちて、海を越えて大邦と仇を作せば、其の勢ひとして必ず敗れん。 若し中国に生まれて其の胸臆を恣に行はしめば、未だ必ずしも成さずんばあらじ)
 このこと(秀吉が、明国人である許儀後のスパイ活動の罪を許したこと)から考えると、秀吉もかなりの力量をもつ、非凡な人物であったことがわかる。小さな島国の蛮族から身を起こし、海を渡って大国と戦争をすれば、負けるのも必然である。もし秀吉が、中国に生まれて自分の胸の思いを存分に行うことができていたら、ひょっとして世界征服に成功していたかもしれない。