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※このhtml版は「副」版です。ネット検索用に「文字化け」や「レイアウト崩れ」を覚悟で作った簡易版です。
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朝日カルチャーセンター 千葉教室 平成二十六年(二〇一四)十月二十四日(金)
晩秋〜冬の漢詩文
加藤 徹
 今日は新暦では十月二十四日、旧暦では閏九月一日。
 新暦 二十四節気  新暦 二十四節気
十月二十三日
十一月七日
十一月二十二日
十二月七日
 霜降
 立冬
 小雪
 大雪
十二月二十二日
一月六日
一月二十日
二月四日
 冬至
 小寒
 大寒
 立春
 来年(平成二十七年=二〇一五)の旧正月は二月十九日。
  冬初出遊
南宋 陸游(一一二五〜一二一〇)
 蹇驢渺渺渉煙津
 十里山村発興新
 青旆酒家黄葉寺
 相逢倶是画中人
蹇驢 渺渺 煙津を渉る
十里の山村 興を発して新たなり
青旆の酒家 黄葉の寺
相逢ふは倶に是れ画中の人
 
【読み方】トウショのシュツユウ。ナンソウ、リクユウ。ケンロビョウビョウ、エンシンをワタる。ジュウリのサンソン、キョウをハッしてアラたなり。セイハイのシュカ、コウヨウのテラ。アイアうはトモにコれガチュウのヒト。
【語注】蹇驢…よたよたと歩むロバ。渺渺…広々とした様子。煙津…霧のかかった渡し場。十里…中国の一里は約0・5キロメートル。青旆…酒屋が看板代わりに掲げる青い旗。
 
 
  多岐亡羊(タキボウヨウ)・亡羊の嘆(ボウヨウのタン)
『列子』説符第八
楊子之鄰人亡羊。既率其党、又請楊子之豎追之。楊子曰「?。亡一羊、何追者之衆」。鄰人曰「多岐路」。既反。問「獲羊乎」。曰「亡之矣」。曰「奚亡之」。曰「岐路之中又有岐焉。吾不知所之。所以反也」。楊子戚然変容、不言者移時、不笑者竟日。
【書き下し文】楊子の鄰人、羊を亡(うしな)ふ。既に其の党を率ゐ、又、楊子の豎(じゅ)を請ひて之を追ふ。楊子曰く「?(あゝ)、一羊を亡へるに、何ぞ追ふ者の衆(おお)き」と。鄰人曰く「岐路(きろ)多し」と。既に反(かえ)る。問ふ「羊を獲(え)たるか」と。曰く「之を亡へり」と。曰く「奚(なん)ぞ之を亡へる」と。曰く「岐路の中に又た岐有り。吾れ之(ゆ)く所を知らず。反(かえ)る所以(ゆえん)なり」と。楊子、戚然(せきぜん)として容(かたち)を変へ、言(ものい)はざること時を移し、笑はざること日を竟(お)ふ。
★年末といえば、赤穂浪士ですね。
 
  四十七士
大塩平八郎(一七九三〜一八三七)
 臥薪嘗胆幾辛酸  臥薪嘗胆 幾辛酸
 一夜剣光映雪寒  一夜の剣光 雪に映じて寒し
 四十七碑猶護主  四十七碑 猶ほ主を護り
 凜然冷殺奸臣胆  凜然 冷殺す 奸臣の胆
 
【読み方】シジュウシチシ。オオシオヘイハチロウ。ガシンショウタン、イクシンサン。イチヤのケンコウ、ユキにエイじてサムし。シジュウシチヒ、ナおシュをマモり、リンゼン、レイサツす、カンシンのキモ。
【語注】四十七碑…赤穂義士の三大碑文は、東京・泉岳寺にある亀田鵬斎(かめだほうさい)による赤穂四十七義士碑、江州大石荘(滋賀県大津市南部)にある栗山潜鋒(くりやませんぽう)による忠義碑、兵庫県赤穂市・花岳寺にある藤江熊陽(ふじえゆうよう)による忠義塚を指す。
 
 
★江戸時代の後期には、大塩平八郎の洗心洞、広瀬淡窓の咸宜園、緒方洪庵の適塾、吉田松陰の松下村塾など、各地に独特の私塾があらわれました。
 
  桂林荘雜詠示諸生
広瀬淡窓(一七八二〜一八五六)
 休道他郷多苦辛  道ふを休めよ 他郷苦辛多しと
 同袍有友自相親  同袍友有り 自ら相親しむ
 柴扉曉出霜如雪  柴扉 暁に出づれば 霜 雪の如し
 君汲川流我拾薪  君は川流を汲め 我は薪を拾はん
【読み方】ケイリンソウザツエイ、ショセイにシメす。ヒロセタンソウ。イうをヤめよ、タキョウ、クシンオオしと。ドウホウ、トモアり、オノズカらアイシタしむ。サイヒ、アカツキにイずれば、ユキ、シモのゴトし。キミはセンリュウをクめ、ワレはタキギをヒロわん。
【語注】桂林荘…漢学者である広瀬が現在の大分県日田市に開いた私塾。後の「咸宜園(かんぎえん)」の前身。同袍…同じ「袍」(綿入れの着物)を着る仲間。「同僚」「同窓」などの語と同じ構造の言葉。柴扉…小さな雑木で作った、粗末な扉。
 
★各地の私塾の中でも、玉木文之進(たまきぶんのしん)が開き、吉田松陰が講義した松下村塾は、特に有名です。
 来年のNHK大河ドラマ「花燃ゆ」のヒロインは、吉田松陰の妹・杉文(すぎふみ。後の楫取美和子=かとりみわこ 一八四三〜一九一二)で、女優の井上真央が演じます。
 文の最初の夫は、松蔭の弟子であった久坂玄瑞でした。
 
  失題
久坂玄瑞(一八四〇〜一八六四)
 皇国威名海外鳴
 誰甘烏帽犬羊盟
 廟堂願賜尚方剣
 直斬将軍答聖明
皇国の威名 海外に鳴り
誰か甘んぜん 烏帽 犬羊の盟
廟堂 願はくは賜へ 尚方の剣
直ちに将軍を斬りて 聖明に答へん
 
【読み方】コウコクのイメイ、カイガイにナり、タレかアマんぜん、ウボウ、ケンヨウのメイ。ビョウドウ、ネガわくわタマえ、ショウホウのケン。タダちにショウグンをキりて、セイメイにコタえん。
【語注】烏帽…烏帽子。ここでは日米和親条約を結んだ幕府の役人を指す。廟堂…ここでは京都の朝廷を指す。尚方剣…前漢の成帝の忠臣・朱雲(折檻の故事で有名)が奸臣を斬るために「尚方斬馬剣」の下賜を願った故事をふまえる。聖明…京都の天皇を指す。
 
 久坂玄瑞は、元治元年(一八六四)の「蛤御門の変」(禁門の変)で自決。文は二十二歳の若さで未亡人となり、苦労を重ねます。その後、文は明治になってから、やはり松蔭の弟子であった小田村伊之助(後に楫取素彦=かとりもとひこ、と改名)と再婚します。
 小田村にとっても、文は二番目の妻でした。彼の最初の妻は、松蔭の妹で文の姉にあたる寿(ひさ)です(後に死別)。寿は小田村とのあいだに二男をもうけました。
 蛤御門の変のあと、長州藩では、幕府への恭順派が一時的に政権を握ります。藩内の倒幕派は弾圧され、小田村の兄も犠牲となりました。小田村自身も、その年の十二月に入牢が決まります。死を覚悟した小田村は、寿に二人の息子を託し、次の漢詩を詠みました。
 
  無題
楫取素彦(一八二九〜一九一二)



 
勤倹十年労家政
裁縫紡績幾営為
糟糠未報阿卿徳
又向獄中賦別離
勤倹十年 家政に労し
裁縫紡績 幾営為
糟糠 未だ報いず 阿卿の徳に
又 獄中に向ひて別離を賦す
 
【読み方】キンケン、ジュウネン、カセイにロウし、サイホウボウセキ、イクエイイ。ソウコウ、イマだムクいず、アケイのトクに。マタ、ゴクチュウにムカいてベツリをフす。
【語注】糟糠…糟糠の妻。阿卿…英語の「ダーリン」にあたる漢語。
(20141024)