「心の科学の基礎論」研究会

2005年の活動履歴


第47回研究会

日時:2005/10/22(土)  1:30-5:30 

場所:明治大学 駿河台キャンパス 研究棟3階 第10会議室

1)宮本真也(明治大学情報コミュニケーション学部/社会学)

「コミュニケーションのエピステモロジーへ」

 批判理論という試みに携わった人々は共に、社会における理性の実現の過程、社会的な病理、解放的認識関心という三つの要因を核として、社会批判という課題を多様に展開していた。
 コミュニケーション論的転回以降、批判的社会理論においてもこれらの三つの要因は微弱ながら維持されていた。しかし、A・ホネットによれば、批判理論が重視していた社会批判のための感受性に関わる社会のメンバーの主体(性)の形成過程への視点は、社会学的な同時代診断だけではなく、ハーバーマスにおいても同様に失われてしまっている。
 この傾向にたいしホネットの承認論的アプローチは社会批判のための規範的基礎を、コミュニケーション的行為もまた前提とする、人格に付与すべき価値特性が学習される地平にもとめる。この試みのなかでホネットは近年、穏やかな価値実在論という立場を取る。本発表ではこの立場によって可能となる批判的社会理論のさらなる転回の可能性に検討を加えたい。

2)福井 一(奈良教育大学教育学部音楽学研究室)

「音楽と脳 -音楽は何のためにあるのか-」

 人類の歴史を振り返ってみると、現代ほど音楽が身近な時代はない。私たちの生活は、音楽であふれている。人間は音楽を必要としているのだ。しかし、音楽の大切さを本当にわかっている人はわずかだ。それどころか、ほとんどの人にとって、音楽は不可欠ではない。たとえこの世に音楽が無くても、それはそれで生きていくのには困らない。生きるために、パンのかわりに音楽をとる人はいない。
 在るにこしたことはないが、別に音楽が無くてもやっていける。その意味では、音楽は「余剰」なのだ。実際、世間には「音楽は大切だ」と言いつつ、心底では「たかが音楽」と思っている人間がいかに多いことか。
 音楽は長年、趣味や芸術あるいは文化の一領域に過ぎなかった。しかし近年、こうした状況が変わりつつある。音楽は最新の脳科学から注目されているのだ。音楽は情動(感情)であり、いわば「こころ」そのものである。しかし、同時に音楽を構成する要素は「音」という物理現象だ。それゆえ、音楽を通じて、情動への自然科学的アプローチが可能であるということに、研究者が気づき始めたのだ。


第46回研究会

日時:2005/6/25(土)  1:30-5:30 

場所:明治大学 駿河台キャンパス 研究棟2階 第8会議室

1)水本正晴(明治・東海・日本大学非常勤/哲学)

「機械は考えることができるか?」は初期の人工知能研究の中心的問いであった。それに比べ、「機械は知ることができるか?」という問いは、あまり問われることはなかった。それは我々が、コンピュータに「データベース」が備わっていれば、それをそのコンピュータの「知識」と見なせると考えてきたからである。他方、SFなどでは脳が直接データベースにアクセスできることで、個人が(労せず)驚異的な「教養」を身に付けることができる、といった世界が描かれてきた。だが、データベースにアクセスできることは、知識を持つことと本当に見なせるのであろうか。少なくとも専門の認識論者は(「身体性」の問題を措いてもなお)それを認めないであろう。データベースへのアクセス可能性は、単に「情報」を持つことにすぎない。では、真に機械が知識を持つと言えるためには一体何が必要となるのであろうか。本発表において私は自然主義的認識論の観点からこの問いに一定の回答を与えるが、この考察は、その過程で我々に「情報」概念の反省と見直しをも迫るものとなろう。

2)柴田克己(日本大学/心理学史)

 カート・ダンジガー著 河野哲也監訳『心を名づけること:心理学の社会的構成』(勁草書房)の合評会


第45回研究会

日時:2005/3/26(土) 1:30-5:30 

場所:明治大学 駿河台キャンパス 研究棟3階 第10会議室

1)渡辺恒夫(東邦大学/心理学)

 "Eastern epistemology" and the psychology of subjective self.(「東洋的認識論」と主体的自己の心理学)

 "History & Theory of Psychology Evening Colloquia 2004-2005 York University" (Toronto, Canada: September, 2004) での発表の日本語版を発表する。
 ジェームズ以来、"I"(主体的自己)が"me"(客体的自己)のように心理学で研究されてこなかったのは、当然であった。自己は、「客観的に」研究の対象となるや否や、「主体的」ではなく「客体的」になってしまうからだ。カナダ在住のインド人心理学者パランジュペ(Paranjpe,1998)は、「ここには現代の科学哲学を超えた認識論的問題がある」といい、東洋的伝統の中に示唆を求めるよう促す。本論は、主体変様 idiomodific という方法論的認識論的概念を導入することで、彼の促しに応えようとする試みである。この概念は黒田正典(1980)によって、法則定立的と個性記述的に続く第3の科学方法論として提案された。主体変様的方法においては、我々は自分自身を変容させることなしには、何事をも認識しえない。第1章では、幾つかの東洋的行法と学芸を例に、主体変様的認識の核心が、"Knowing A is becoming A"と定式化される。第2章では、シャルロッテ・ビューラー(1923)に始まる自我体験の研究を紹介する。近年、日本において、この忘れられていたテーマが蘇った。子どもが"me"ではなく"I"に出会った瞬間の、驚きや困惑などの体験を研究することによって、"I"についての「経験的研究」に道を拓くことが期待されるのだ。第3章では、自我体験の構造そのものが、自己認識の主体変様的過程を表現していることを明らかにする。第4章では、インド心理学の歴史自体が、主体変様的自己認識の過程であることを示す。結論:"Knowing your true self is becoming the true self."

2)松本展明(東邦大・関学大・横国大/精神分析・科学哲学)

「心の病の心理的原因について──心因論──」

 現在、学者や学問の世界では、心を脳で語ろうとする態度が主流であり、その影響力は強まりつつあります。しかしその一方で、普通の人や日常の世界にはまだまだ心の話があふれており、脳の話に置き換えられてしまう気配はありません。全体的に見るなら、今後しばらくこうした傾向は変わらないでしょうし、必ずしも対立と呼ぶほど深刻な状況でもなく、むしろ巧みな使い分けのように感じることさえあります。しかし、無視できない問題や対立が生じる場面もあり、その一例として心の病の考察を挙げることができます。この発表では、心の病の心理的原因〔心因〕へと話の焦点をしぼり、脳の話を好む専門家と心のままの話を好む一般の人々について、また原因という考え自体について、さまざまな角度から考察してみます。もし余裕があれば、原因に対する精神分析のとらえ方に関して、やや専門的な話(例えばトラウマに関するフロイトのやや細かい議論とか、ヤスパースによる批判の考察など)も行う予定です。誰が聞いても分かる素朴な言葉でていねいに語ることを心がけますので、この文章をたまたま目にした普通の学生や社会人の方、お暇なら是非お越しください。予備知識は無くても大丈夫です。なお、この発表は今春発行の『東邦大学教養紀要 第36号』掲載の拙論「心因論」をもとにしたものです。


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