「法言語学(言語[科学]と法)とは」
(走り書きバージョン:コメント大歓迎!)
言語学はことばの使い方に精通することを目的とした学問ではない。人間がことばを介して
行う認知のメカニズムをモデル化を通じて接近を試みる学問である。認知という働きは
有機体である脳の中で起こっている現象、すなわち、生物の一部で起こる生体現象であり、
さらにつきつめれば、脳内現象は、つまるところ、文理解に際して脳内で起こる化学反応の結果、
また脳科学の別の立場から言えば、脳内での伝達物質の相互作用により電気信号が流れるか
流れないかということであるから、脳内現象としての言語現象は、化学現象・物理現象の
ライン上にあると言える。 しかし、この脳内現象である認知機構そのものは直接
実験・観察することも、記述することもできない。したがって、観察可能な言語現象を
観察、実験の対象とし、記述の手段として数学的記号体系や日常言語を用いた述べられた
規則を用いて、言語を介した認知のメカニズムをモデル化する。この方法はちょうど
ほとんどの自然現象を扱う自然科学が数学的記号体系を用いて、モデル化という
方法を通して現象への接近を試みるのと完全に平行する。言語科学における、言語現象を
介した認知のメカニズムを表す最も端的な手段としての規則・モデルが、よりズサンな定義で
一般的に文法(規則)と呼ばれてきたが、一般に学校で教えられている「文法」とはまったく
別物であるということは明白であろう。言語(科)学は、自然言語を観察対象として認知機構の
解明を行う自然科学なのである。まずは、このことを認識しておいていただきたい。
しかしながら、言語学がこのような認知科学、ひいては自然科学に発展したのは、
20世紀中盤以降の目覚しい言語理論の発達に伴ってである。それ以前の旧来の
言語学は素朴に言語そのものを研究対象としてきたが、そのような研究方法も法との
関連を扱ってきた。元々、「法も言語も人間特有のものであり、社会を構成していくために
必要な規則に司られたシンボルの体系である」(Levi 1986)という捉え方をするならば、
言語学と法という、一見、無関係な分野を股に架ける研究分野が成り立つのもそれほど
不思議ではなかろう。また、法を言語という観点から捉える試み自体は、「法と言語」と
呼ばれる法哲学の一分野としてすでに確立しており、主に哲学的なアプローチから研究が
なされてきた。日本ではおそらくこちらのアプローチの方が、法学関係者には知られて
いるであろう。このアプローチは、ヴィトゲンシュタインやオースティン等の日常言語哲学に
端を発するもので、法廷弁論や判決における法の言葉の働き、すなわち実際の言語使用に
関心を向ける(田中 1993)。これらのような視点から分析を行うのが、もっとも伝統的な
「言語と法」の研究でもあった。
しかし、20世紀最後の四半世紀は、言語学の分析手法を法システム・法運用の分析・
理解のための手段として用いるいうよりも、法実務の中でどう応用していくかということに
関心が向けられるようになってきた。「法言語学(forensic linguistics)」の誕生である。
法の世界、特に『裁判』という特殊なコンテキストにおいては、ことばの使用の結果が人の生活、
人生に変化をもたらしたり、時として生死をも決定する要因になってしまう場合さえあるために
なおさら重要である。(Levi 1993)ことばは、我々の社会生活において、その存在、使用が
あまりにもあたりまえであるがために、ついその本質の追求を怠ってしまったり、自己の知識で
十分に分析・理解し得るものであるという錯覚に陥ってしまう。しかし、私たちは意外に自分の
使っていることばのことを知らない。確かに日常使用する言葉であれば、意味は辞書を見れば
わかるのだから、わざわざ言語学者や最新の分析理論に頼ることはないと考えるかもしれない。
実際、多くの裁判において語の定義が争点となった際、言語学者の代わりに辞書が活躍してきた。
しかし、辞書に記載されているのは、単に語の「規範的な意味」であり、コンテクスト内の実際の
言語使用、すなわち記述的な生きたことばの姿が説明されているわけではないし、経験的な
調査に基づいているわけでもない。(Levi interviewed and quoted in Samborn 1996)
言語学の分析は一般によく知られている声紋分析や筆跡鑑定による人物特定に
留まらず、ことばに基づく証拠の分析、証言の信憑性の実験、事実認定者による判断の
信頼性の実験、プロファイリングなどの様々な分野で応用されている。また、このような言語分析が
応用可能な法の分野は、文書の偽造、名誉毀損、脅迫、贈収賄、共同謀議、商標の類否、
商品の注意書き等、刑法から不法行為法や製造物責任法まで多岐に渡る。
「法言語学」という分野は、日本では馴染みの薄い分野であるが、アメリカやイギリスにおいては、
2、30年ほど前より研究が始められ、近年になってその重要性が認識され、関連研究も隆盛を
見せている。また、様々な大学において学科、または科目として設置されるなど、社会科学の
一分野として次第に確立されつつある。しかし日本では、ごく一部の言語学者によって、
過去十数年の間に調査が始まったばかりの比較的新しい分野である。
教育機関においても、今のところ、ごく限られた大学においてのみしか、
言語分析に主眼をおいた「言語と法」の関係を扱う科目は設置されていないようである。
法律家も言語学者もことばを扱うという意味では共通している。その意味では両者共に
ことばの専門家である。両者の違いは、法律家はことばの「法律的観点からの解釈」の専門家であり、
言語学者はことばの「構造的解釈」、及び「実質的使用における意味の解釈」、すなわち
ことばによる認知のメカニズムの専門家であるという点であろう。法律家といえども、
ことばの分析に関しては、学校教育における言語教育で身に付けた言語分析の知識、
能力を有するだけであり、一般常識人以上の能力は持ち合わせていない。ましてや、
ことばを介した認知のメカニズムを分析するための言語分析の手法などは学んでいない。
二十世紀後半、言語分析理論はチョムスキー理論の出現に伴い客観的経験科学として、
ひいては自然科学として飛躍的な発展・進歩を遂げたが、学校教育において教授される
言語分析法は、はるか昔に作り上げられた"記述的"なものをそのまま用いていて、
過去半世紀の成果を全く反映していない。しかし、残念ながらこの事実はあまり認識
されていないようである。
法律家と言語学者の両者がお互いの専門知識を提供し合うことは、より正確な事実の把握、
真実の解明、そしてより的確・公正な法の解釈・運用に有益であることは言うまでもない。
科学としての言語学は、ことばを、音声、形態、構造、意味等の特性に関し、経験的手法を
用いて分析する術を有している。その客観性、論理性、説得力が評価されてきているからこそ、
米、イギリス、オーストラリアなどでは言語学者がことばに関する証拠の鑑定を行ったり、
専門家証人(expert witness)として出廷するケースが増えてきているのである。
では、なぜ言語学者が必要なのか。たとえば、商標の類否の判断を考えていただきたい。
ある商標名と別の商標名が似ているか否かは、あきらかにことばの認知にかかわる問題である。
ことばを母語として運用し、学校文法をよく知っていることと、ことばの認知のメカニズムを知ることは
まったく別であり、前者を熟知しているからと言って、後者を知っているとは限らない。
だからこそ、後者の解明を専門としている言語学者の分析が有用、かつ必要となってくるのである。
法における言語科学の重要性は、海外での評価と同様、わが国においても今後ますます
高まっていくことが期待されるが、わが国では法廷での言語学分析の利用には多くの課題が
残されている。アメリカに比べ、証拠法による専門家証人、鑑定人の利用の基準が厳しくない
日本においては、制度上の問題よりも、言語学分析の認知度そのものの低さが問題であると
考えられる。したがって、言語学を専門とする者達が、まずは言語学分析の有用性を証明して
いくのと同時に、その信頼性を高めるために、分析の客観性・科学性を証明し、検証可能性を
高めることによって、法律家達に、言語学分析が彼等の信頼に十分に値するものであるという
ことをアピールしていくことが重要であろう。
*法言語学に興味を持った方、学内外を問わず、お気軽にメールをください。
参考文献:
(和書)
大津由紀夫 「言語の認知科学 ---スティーブン・ピンカーのエッセイに寄せて---」丸善販売書籍カタログ『現代言語学の最前線1999/2000年版』1999
黒田航 「認知形態論」吉村公宏編 『認知音韻・形態論』大修館書店2003. 第2章
郡司隆男 「言語科学の提唱」、松本裕治、今井邦彦、田窪行則、橋田浩一、郡司隆男『言語の科学入門』岩波書店2004.
第4章
小林道夫 『科学哲学』産業図書 1996
田中成明 (1993) 『現代論理法学入門』 京都 法律文化社
畠山雄二 『ことばを科学する。理論言語学の基礎講義』鳳書房 2003a.
畠山雄二 『情報科学のための自然言語学入門』丸善 2003b.
福井直樹 『自然科学としての言語学』大修館書店 2001.
村上陽一郎 『新しい科学論、「事実」は理論を倒せるか』講談社 1989.
(洋書)
Levi, Judith (1986) "Applications of Linguistics to the Language of Legal Interactions." In The Real-World Linguist: Linguistic Applications in the 1980s, edited by Peter C. Bjarkman and Victor Raskin. Norwood, New Jersey: Ablex. Pp. 230-265.
Levi, Judith (1993) Evaluating Jury
Comprehension of Illinois Capital-Sentencing Instructions. American
Speech 68.1, pp. 20-49
Samborn, Hope V. (1996) Looking for the
Meaning of life? Call a Linguist. ABA
Journal, February p 28.