心物問題


■たとえば、スプーンを念力で曲げると(曲がったとして、であるが)、超常現象だとされるが、スプーンを筋力で曲げると、通常現象だとされる。念力で曲げたふりをして筋力で曲げると、不正行為として糾弾される。しかし、なぜ念力は超常現象で、筋力は通常現象なのだろうか。

■筋力の場合は、脳の運動野の神経が興奮して、その興奮が運動神経を伝わり、筋肉を収縮させるというメカニズムが明らかだから、通常現象のように思われる。しかし、そもそも、筋肉を(そしてスプーンを)曲げようという意志が運動野の神経を興奮させるのだとしたら、それもまた念力であり、超常現象であるとはいえないか。(エックルスの二元論)

■素朴なアニミズム的世界観は、素朴な二元論であり、同じ世界の中に物質的実体と精神的実体が共存しており、互いに相互作用している。このような二元論を近代的に整備しなおしたのがデカルトである。デカルトは、精神には大きさや形がなく、物質が属する空間の中には位置を占められないと考えた。神経系を通して身体を巡る「動物精気」はある種の微細な物質であり、不随意的な運動は物質だけで説明できるとした。この意味では機械論的なモデルである。しかし、精神と物質を完全に切り離してしまうと、知覚や随意運動が説明できない。そこでデカルトは脳の松果腺で両者が相互作用すると考えた(相互作用説 interactionism)。しかし空間内で位置を占めない精神が特定の器官に作用するというのは奇妙である。そこで二元論ではあっても脳と心は相互作用するのではなく、並行関係にあるとするのが並行説 parallelism である。

■その後の近代科学の世界観は、二元論から精神を取り去った物質一元論、唯物論 materialism が優勢になる。とはいえ、完全な唯物論では主観的な体験は存在しないことになってしまうが、それはわれわれの直感に反する。そこで、実際には、随伴現象説 epiphenomenalism という、唯物論と二元論の折衷案が一般的である。随伴現象説では、心は脳の働きとして生み出されてくるもので、脳という物質の変化は心の内容に反映するが、心から脳への逆向きの作用は考えない。

■ここで、いったん脳から離れて、量子力学における観測問題に話を進める。シュレディンガーの猫のたとえ話。蓋をした箱の中に猫がいて、生きている確率と死んでいる確率が半々だとする。生きているか死んでいるかは、箱を開けて中を見る(観測する)とわかる。(これは、ミクロPKの実験に使われる乱数発生器の比喩でもある)

■古典的な力学では、箱の中の猫は蓋を開ける前から生きているのか死んでいるのかのどちらかで、蓋を開けて観測することによってどちらかを知ることができると考える。しかし、量子力学では、蓋を開けて観測するまでは、猫は生きている状態と死んでいる状態の「重ね合わせ」にあり、蓋を開けて観測した瞬間に、生きている状態と死んでいる状態のどちらかの状態に「収束」すると考える。

■これはとても奇妙な考えだが、たんなる形而上的な思弁ではない。そう考えないと実験データが説明できないのである。これをどう考えるかが観測問題であり、実証主義的な立場(コペンハーゲン解釈)と(物質)実在論的な立場(多世界解釈)の二つが一般的である。現代物理学では、実証主義的な立場が優勢である。つまり、箱の中の猫がどのような状態にあろうと、生きている確率が50%であるという予測さえできればよいので、それ以上は考えないことにするという立場である。心脳問題における同一説はスピノザにさかのぼるが、その後の中立的一元論 neutral monismや、原始仏教の「無記」の考えも、実証主義の立場に属するといっていい。

■いっぽう、多世界解釈はあくまでも物質実在論にこだわる。観測の瞬間に、「生きている猫とそれを観測した観測者」と「死んでいる猫とそれを観測した観測者」をセットにして、その二つに世界が分裂すると考えれば、観測者の意識という特権的な存在を仮定しなくてもよくなるからである。

■さらに、ミクロPKの実験結果を肯定的に認めるなら、観測者の意識が観測という行為(つまりPK)によって猫の生存確率に影響を与える(たとえば51%)ということになり、これは実証主義の範囲にとどまっていてもコペンハーゲン解釈と対立する。エックルスは身体を動かそうという意志が同じようなメカニズムで脳細胞に作用していると見なしている。これはデカルトの二元論と同じである。

■さらに唯物論と正反対の一元論として、唯心論がある。精神が唯一の実体であるとするのが唯心論 spiritualism であって、これはそのままでは独我論でもある。ライプニッツのモナド論では複数のモナドの世界が同期していると考えた(予定調和)。観測という行為が物質的な世界を生成しているという見方である。ライプニッツのモナド論は並行説とされるが、モナド論を発展させた中込の量子モナド論は唯心論である。中世以前の世界観はむしろ物質よりも精神のほうを基本的な実体と考えた。個人を超えた普遍的な精神が流出して個人の心が展開し、さらに物質的な世界が展開するというのは、西洋の新プラトン主義や、インドの代表的な思想であるヴェーダーンタ学派、サーンキヤ学派にみられる。ライプニッツのモナド論は並行説だが、物質世界は個人の心の見る像であるとする点で唯心論的であり、複数の心が同じ物質世界をみているのを予定調和で説明した。

テキスト信頼度自己評価? 2007/2550-12-03 改訂 蛭川立