ビジネス情報倫理


Contents

  1. 研究のねらい
  2. 情報倫理研究
  3. 企業の信頼と評判
  4. モラルエージェントとしての企業
  5. 情報倫理の戦略的意味

研究のねらい

 本研究では,インターネットの爆発的普及を背景に現れてきた,今日のeビジネス環境において,企業が直面する問題,とりわけ倫理的問題を研究対象とし,現代企業がどのようにそうした問題への対処を行うべきなのかについて考察する。信頼,評判リスクにさらされた存在である現代の企業にとって,倫理的問題への対処はリスク管理の一環としても考えることのできる,戦略的意味を有するものである。


情報倫理研究

 コンピュータに関わる倫理的問題についての本格的な研究が世に出始めたのは,1980年代半ばであった。ITの急速な発展と普及が,社会におけるさまざまな機能のITへの依存度を高め,IT専門家だけではなく,多くのエンドユーザーがITを利用する状況が出現しつつあった当時,ITの誤用,悪用が社会に対して与える悪影響が心配され,ITの倫理的な利用の促進が目指されたのも自然な流れであったといえる。

 たとえば,ムーア(J. H. Moor)はコンピュータ技術の持つ特徴がコンピュータ利用に関する方針の真空状態を生み出すことを指摘し(Moor [1985]),ジョンソン(D. G. Johnson)は機会均等を中心としてコンピュータに関する基本的な権利の検討を行った(Johnson [1985])。また,メイソン(R. O. Mason)は情報社会における主要な倫理的問題領域としてPAPA,すなわち,プライバシー(Privacy),データの正確性(Accuracy),知的財産権(Property),アクセス(Access)の4つがあることを指摘した(Mason [1986])。

 これらの先駆的な研究を皮切りとして,今日まで,さまざまな研究が展開されてきている。そこで取り上げられている,あるいは取り上げられようとしている課題は[情報倫理問題の分類]に示すとおりである。これを見ても,実にさまざまな問題がITと情報に関して存在していることが分かるであろう。そしてその多くは企業活動と直接的に関係するものなのである。


企業の信頼と評判

 eビジネス環境において企業の信頼と評判,そしてそれが大きく影響を及ぼすステークホルダーとの関係性は,現代の企業にとって,顧客との関係性の維持し,新規顧客を獲得し,従業員に誇りと満足を与え,投資家に投資意欲を持たせ,柔軟なビジネスプロセス構築を可能にする上でのキーファクターである。信頼と評判は企業にとって,競争上,重要な役割を果たす資産として認識されるべきものであり,その管理は企業にとっての戦略的課題であるといえる。

 eビジネス環境における迅速で顧客要求に柔軟に対応するビジネスプロセスの構築とその運用において,信頼が重要な役割を果たすことは多くの論者が指摘するところである。

 企業の評判と財務パフォーマンスとの間に有意な関係が存在していることも多くの研究において報告されている。ダウリング(G. Dowling)は,フォーチューン誌の「最も賞賛される企業(Most Admired Corporations)500」の1984年から1995年のデータを用いて企業の評判とROA(after-tax Return On total Asset)との間に以下のような関係があることを報告している。

 @ 企業の良い評判は,優れた財務リターンを得る期間を長くする

 A 企業の良い評判は,平均を下回る財務リターンに甘んじる期間を短縮するかもしれない(Dowling [2001])

 有形ではない情報資産である信頼と評判がビジネスパフォーマンスと密接に関わるようになっている今日,これらの情報を適切に管理することは多くの企業にとって競争上重要な問題である。この情報資産は,企業の決定と行動,従業員の行為の積み重ねによって形成され,高い信頼と評判は長期にわたる企業の努力によって初めて達成されうるものである。その一方で,信頼と評判を失うのはほんの一瞬の出来事であるかもしれず,それを取り戻すには再び長い期間の努力を要する。また,パートナー企業の行動や信頼,評判が企業の信頼,評判に影響を及ぼすことも考えられ,競合企業の評判の低下が産業全体の評判の低下を引き起こすこともある。さらには,マスメディアのようなインフルエンサーの行動の影響も無視することはできない。こうしたことから分かるように,企業における信頼,評判の管理は決して容易ではない。そしてeビジネス環境というネット社会における企業環境はこの状況をさらに複雑なものにしているのである。


モラルエージェントとしての企業

 企業にせよ個人にせよ,社会的存在としての行動主体は,それが生存,活動する地域,領域あるいは社会のコンテクストを理解した上で行動しなければその存続が許されない。さまざまなステークホルダーやインフルエンサーの情報発信能力の高まっている今日においてはなおさらである。しかし同時に,主体の行動と社会のコンテクストには双方向性があり,個々の主体の判断,行動が社会のコンテクストを生成していく要素となる。ムーア(J. H. Moor)がアリストテレスの言説にことよせて示唆しているように(Moor [1998]),企業や個人のIT利用に関する言動が,IT利用における慣習を生み出していくのである。

 ITの浸透という「社会の機械化」のあり方は,機械化という現象の多くに見られる産業や社会の変化における不可逆性という性質を有している。2002年4月に発生したみずほ銀行のシステムトラブルから引き起こされた混乱は,改めて今日の企業活動,社会生活がITに依存していることを実感させた。しかもこの依存状態を元の状態に戻すことは現実的には不可能である。そしてドッグイヤーあるいはマウスイヤーとすら形容されるITの進展のスピードは,ITによる産業,社会の不可逆な変化をさらに加速している。

 今日,企業において積極的に導入と活用が進められているITは,その利用がITそのものの急速な開発とともに進められている。企業情報システムの持つ社会的インパクトは時として大きく,それが影響を及ぼす範囲は広い。産業ならびに社会における不確実で不可逆な変化をもたらすITの開発,利用にあたってモラルエージェントたる企業は,それらが社会のコンテクストに適合しているのかを確認し,将来の健全なコンテクスト生成に寄与しうるものであるのかを検討しなければならない。グリーソン(D. H. Gleason)が指摘するように,情報システムの設計,開発においては,初期段階から怠ることなく,継続的に倫理的検討を行うことが必要なのである(Gleason [1999])。

 モラルエージェントとしての企業は次の要件をみたさなければならない。第1に,ITの開発利用が引き起こしうる倫理的問題に対してセンシティブになることが要求される。社会における多様な価値の存在を認め,自らの行動が,どのような権利侵害や価値対立の状況を生み出しうるのかについて常に配慮する文化を形成することによって企業は,倫理的問題の所在を事前に知覚し,問題の発生を未然に防ぐ手立てを考えることができるかもしれない。

 第2に十分にディフェンシブルな行動を選択するよう心がけなければならない。行動に対してクレームをつけられた際に,判断の根拠を明らかにし,責任の所在を明確にして,自らの行動の正当性を主張する準備ができていることが必要である。

 第3に,対立する価値を持つ他者との理性的対話ができなければならない。声高に自説のみを主張するのではなく,他者の声にも耳を傾け,必要であれば問題解決プロセスに積極的コミットし,時には価値の対立状況を解消ための建設的折衷案や斬新なアイデアを提示できるバランス感覚を持つことが必要とされる。

 言うまでもなく,人格を有しているわけではない企業という組織がモラルエージェントとして存在するためには,企業の構成メンバー一人一人がモラルエージェントとして自立した存在でなければならず,その上で,メンバー間における組織価値の共有がなされ,倫理的問題が発生した場合の合意形成のための制度的対応が準備されていなければならない。

 これらの要件を充足するためには,企業おける組織的な取組みが必要である。ITが現代の企業活動に不可欠なものであり,その開発と利用が戦略的意味を持つことを考えれば,モラルエージェントとしての組織構造,組織制度,組織文化を作り上げる試みにはトップマネジメントの積極的なコミットメントが必要とされるであろう。


情報倫理の戦略的意味

 企業における情報倫理への取組み,すなわち,ITならびに情報に関する適切な倫理観と倫理的問題解決ケイパビリティを確立し,組織メンバーへの浸透をはかることが,企業にとってどのような戦略的意味を持つのかについては,コストと差別化の2つの側面から考えてみることができる。

 コストという視点から見ると,情報倫理への取組みが適切に行われ,ITの開発,利用ならびに情報行動に関する倫理的感覚が企業メンバー間に浸透している場合,企業は生産性,効率性を維持,あるいは改善し,コスト低下につながると考えられる。たとえば,セキュリティコストを削減できることになるかもしれない。信頼できる従業員は,技術よりも確かなセキュリティを企業にもたらすからである。職場におけるハイテクモニタリングやプライバシーの議論も不要となろう。

 情報倫理への取組みが顧客に評価されれば,顧客情報の収集コストも,顧客自らが情報を提供してくれるために,低く押さえられることになるだろう。

 また,訴訟や損害賠償,信頼,評判に関わるリスクを低く抑えることができるであろう。従業員の多くが情報労働者である今日の企業においては,企業メンバーのIT/情報に関する非道徳的な行為は,社会的な批判を引き起こし,顧客やパートナーの信頼を失わせ,評判を失墜させることになる。そして時には訴訟を起こされたり,損害賠償を請求されたりする。こうした状況に陥れば,ステークホルダーから必要な情報の提供を受けることも困難になり,業務の遂行に支障をきたすことになるばかりか,投資や融資にも悪影響が及ぶかもしれない。

 差別化という側面から考えると,強固なセキュリティシステムを持ち,外部からの悪意の行為に強いことに加え,情報倫理への取組みによって内部の者による悪意の行為を未然に防ぎ,外部の行動主体とのトラブルをスムーズに解消する企業は,そのことによって高い信頼と評判を獲得し,他社を差別化できる可能性がある。また,ITの開発,利用および情報行動に関して倫理的であるという評判を確保することによって,より多くの顧客を引きつけることができ,より多くの有用な情報を収集できるようになると考えられる。他社との提携もより容易になるであろう。このことによって,競合企業に対して差別的なビジネスプロセスを構築できるかもしれない。

 企業からそれを取り巻く環境へと目を転じてみると,情報倫理が企業の対象市場ならびに潜在的市場における顧客および潜在的顧客に浸透していることが,企業の利益を生み出すかもしれない。なぜなら,今日,多くの企業において収益の源泉が有形の製品から情報に移行しているからである。また,企業が存在する社会における情報倫理の確立は,それによって企業の創造活動が正しく評価され,創造への正当な対価が与えられるため,企業にとって有益である。このことは翻って,多くの企業がそうした社会において活動することを望む状況をもたらし,社会の競争力の向上に結びつくかもしれない。したがって,社会における,ITの利用と情報行動に関する好適な倫理観形成への興味は,企業,政府の双方に存在しうるといえるであろう。

 他方,グローバル−ボーダーレス市場における情報倫理の確立と浸透には,それ自身,価値の対立という倫理的問題が内包されている。多様な歴史と文化を持つ国や地域をまたがるグローバル経済において,統一的な価値を共有することは困難である。しかし,真のボーダーレス経済を実現するためには乗り越えなければならない課題である。それは軍事力や経済力を背景に一方的に押し付けられるものであってはならない。むしろ,グローバル経済の中に異なる価値がさまざまに存在することを素直に認識し,その上で対立する価値の間での調整が行われなければならない。ゆるやかな多元主義の下でこそグローバル経済は発展しうるのである。企業倫理や企業の社会的責任に関する国際規格の制定がISOで計画されている今日,日本企業にとっての情報倫理研究の戦略的意味は実はこの点にこそ見出されるといえるのかもしれない。


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