インテル社の歴史
佐野ゼミ 3年生 インテル班班長 平田 隆 1998.03.29作成
インテルは、今では言わずとしれた世界でトップの半導体メーカーである。パソコンに搭載されるMPUの市場に於いてシェアは90%以上といわれる。情報化のブームに乗って96年度の年間売上高は208億ドルに達した(参考:94年度は101億ドル)。
1968年:インテル社設立
ショックレー半導体研究所にいたゴードン・ムーアとロバート・ノイスが同研究所にいた6人の技術者とともにフェアチャイルド・セミコンダクターを設立(世界初のIC生産メーカー)し、その後2人で興した会社がインテル。設立資金は投資家のアーサー・ロックが250万ドル集め(うち彼自身の出資は30万ドル)、ノイスとムーアが25万ドルずつである。
アーサー・ロックが会長、ノイスが社長兼CEO、ムーアが研究開発担当副社長だった。インテル(intel)という社名は、先にインテルコ(Intelco)という会社名が登記されていたためこの社名を1万5千ドルで買い取り訴訟問題を避けた。当時ロバート・ノイスは40歳、フェアチャイルドでゼネラルマネージャーをやっていた。
会社は1万7千平方フィートのユニオン・カーバイド社工場跡。製造管理責任者(ディレクター・オプ:Director of Operation)にアンディ・グローヴを採用。 製品は半導体メモリである。当時はコアメモリという磁気製品が主流であり、半導体メモリはコストが高く価格優位性を持てなかった。それを覆そうとしたのである。
1969年春
ハネウェルの依頼により設計された64ビット半導体メモリ3101を製造。シリコンゲートMOSではなくバイポーラ・プロセスにより開発。ハネウェルより1万ドルの着手金を受け開発。グレアムが「インテル・デリバーズ(インテルは必ずお届けする)」というスローガンを打ち出した。
1970年:初のセカンドソーシング
マイクロシステムズ・インターナショナル・リミテッド(MIL)というカナダの電信電話会社にセカンドソースライセンスをする。前払い金100万ドルを得る。
1970年10月:世界初のDRAMを出荷
現在でも使われる(当然集積度は違うが)DRAMというMOSプロセス半導体メモリ1103を出荷、72年には量産体制となる。
1971年2月:EPROMを国際固体回路会議で発表
インテルがMOSに力を注ぎ始めた頃、そのトラブルシューティングをしていたドーヴ・フローマンが基礎理論を発見。1970年9月にプロトタイプ完成。型番は1702。当初は歩留まりが悪かった(1%以下)が、ジョー・フリードリック(やはりフェアチルドレンでる)がウォーキングアウト(ご機嫌とり)と名付けられた技術を開発し、チップの正確な規格の作成と歩留まりの向上(60%)を実現した。型番は1702a。
1971年7月:マイクローマ買収
デジタルウォッチ製造会社の株を7万株取得し買収。数年後にはそれなりの成績を上げるようになったが、市場自体が停滞し始め、あまり成功したとは言い難い。
1971年10月:株式公募(IPO)
公募直後のインテル株価は23ドル50セント。この時点でノイスとムーアは2人合わせて37%の株を保有、時価は2000万ドルあった。ちなみに当時の2人の報酬はそれぞれ3万ドル。
1971年12月:世界初のマイクロプロセッサ4004を発表
日本のビジコン社の卓上計算機開発がきっかけで開発される。当時ビジコン社にいた嶋正利が論理設計をし、インテル社のテッド・ホフがアーキテクチャ(汎用ワンマイクロチッププロセッサ)を考案、フェデリーコ・ファジン(後にザイログ社を設立)が回路設計をした。元々は電卓用汎用LSIという構想だったが、汎用性を押し進め、2進数を使用、ワンチップ化する事により生まれる。ただし特許はテキサス・インストゥルメンツ社が先(71年7月)に出願しており、同社が保有している。70年4月に設計開始、10月には一応の設計を終える。71年4月に試作品が完成。
ちなみに国産初は73年4月、NECのμコム4発表、9月発売となっている。
1972年4月:8ビットMPUの8008を発表
設計はファデリーコ・ファジン、島正利。アルファベットを扱えるようになり、8ビットとなるが処理速度が遅く、命令セットが小規模であったために応用範囲が狭かった。4004は開発日時、容量、機能などからつけられた名称であったが、市場では「4ビットマイクロプロセッサだから」と考えられていたため、こちらに倣って8008という名称となった。開発ネームは1201。
インテルはこのチップのためにインテレク4という開発システムを発表した。それまではアセンブラでコーディングした後、ニーモニックでインプットしなければならなかったプログラム開発を大いに助け、マイクロプロセッサを商品として存続させる手段となった。
1974年4月:8080を発売
8008の処理速度の4倍以上を実現した8ビットMPU。72年11月より開発、73年8月に設計終了、11月には試作品が完成。実際には8008がPMOS工程で製造されていたのをNMOS工程へ変更しようとして設計が始まった。この工程の変更のみで2倍の処理速度が実現可能だったからである。しかし回路設計そのものをやり直したほうがよいとなり、8080の開発となる。
MITSが8080を使用してマイコン・キット「アルテア」を発売、雑誌に掲載され、雑誌の発売日に400台以上の注文が殺到する。
このころインテルは世界第5位の半導体企業となり、3番目の工場をカリフォルニアに建て、海外でのパッケージングを始めた。
1974年 8月:NECが8080互換のμコム8を発表
1974年11月:NECがインテルより先に16ビットMPU、μコム16を開発
1974年後半:ゲイリー・キルドールがCP/Mを開発
キルドールはこのOSを76年にインテルに持ち込んだが、インテル内部にはすでにISISと呼ばれるOSがあったため、相手にされなかった。
1974年11月:ファデリーコ・ファジン退社
翌年2月には嶋正利も退社、ファジンは5月にザイログ社を設立。8080の互換MPUとしてZ80を開発、翌76年1月試作品が完成、3月に完成し、発表。8080より高速、上位互換、低コストであったためその後長く使用される。
1975年:インテルのCEO兼社長にゴードン・ムーアが、会長にロバート・ノイスが、副社長にアンディ・グローヴが就任
1975年:AMDとセカンドソース契約
訴訟をおそれたAMDがインテルと交渉、セカンドソースライセンスにこぎ着ける。この時のライセンスは8085。
1975年5月1日:マレーシア工場で火災、全焼
インテルのパッケージングはこのころすでに半分以上がマレーシア工場でパッケージングされていた。その工場が全焼したため多大な被害を被った。
1976年4月:アップルT発売
CPUは6502(モステクノロジー製、モトローラ6800互換、どちらもチャック・ペドルが作成)。まだアップル社は設立されていなかった。
1977年4月:アップルU発表、CPUは6502のまま
アップルUはビジカルクという表計算ソフトの登場で売れた。
80年5月にはVも発売、しかし失敗。VもCPUは6502。
82年5月、68000搭載のリサを発売するも9995ドルと高価で失敗。
84年1月、68000(モトローラ)搭載のマッキントッシュ発表。
1977年:MITSがアルテア発売、爆発的に売れる
1977年:マイクローマを売却
71年に買収したデジタルウォッチのマイクローマ社を売却。当初は200万ドルの損失が見込まれたが70万ドルで間に合わせた。インテルはデジタルウォッチから撤退することとなったが、この原因はデジタルウォッチの価格低下が予想より激しく、また毎年新モデルを登場させる必要のある時計市場はインテルの経営には合っていなかったからだと言われる。
1978年:日本企業がメモり事業に続々参入
このころ日本企業がメモり事業に続々と参入し、米半導体企業は売り上げを後退させ始める。インテルも例外ではなく、それまで年50%の成長率を誇ったメモリ事業部は、78年に10%に満たない成長率となり、79年にはついに後退した。メモリは普通3種類の電圧の電源を必要としたが、1つの電源で済む新製品を投入した。それにも関わらず、である。
1978年:インテルのエンジニアが学会で最優秀論文を得る
このころどこのメモリ会社でも起こっていた問題に、不規則なシングルビットエラーがあった。この原因がチップのセラミックパッケージが発する微量な放射線にあり、その相関関係を証明したティム・メイが学会にて最優秀論文の栄誉を得る。実際にはメイは一年以上も前にこれを発見しており、発表が遅れたのはインテルの重要機密とされたからだという。
1978年6月:16ビットMPU 8086を発表・発売
この後インテルのチップ(x86、86系と呼ばれる)が継承していく基本のMPU。後に周辺回路まで1チップに収めた(機能的には8086と同じ)80186も発売。これは世界初の16ビットチップではなかったが、インテルにとってそれは大きな問題ではなかった。インテルにとって意味をなしたのは、モトローラやザイログよりも早くリリースしたことだった。
1979年2月:8088を発表
8086の外部データーバス(CPUと周辺回路を結ぶデーターの通り道)を8ビットに落としたチップ。インテルが巨大になった原因のチップ。
同じ頃、ザイログがZ8000を発売したが、多くの不利な要因があった上、「オペレーション・クラッシュ」に巻き込まれ、まったく売れなかった。これはザイログのセカンドソーシングをあてにしていたAMDにもダメージを与えた。
1979年:役員人事
ゴードン・ムーアが会長兼CEOに、ロバート・ノイスが副会長に、アンディ・グローブが社長兼COOに。
アンディ・グローブはフェアチャイルド時代、ムーアの直属の部下だった。ロバート・ノイスは半隠居生活を送るようになり、副会長に退いた。ノイスは年次報告書の経営陣の写真から姿を消した。
1979年:モトローラが68000を出荷
このモトローラのチップはまたしてもインテル製のチップの上を行っていた。多くの顧客が68000を絶賛するので、インテルはモトローラへの対抗キャンペーンを張った。これは「オペレーション・クラッシュ」(破壊作戦)と呼ばれた。
1979年末:富士通が世界初64KDRAMを出荷
日本企業である富士通が初めて米国企業に先駆け64KビットDRAMを生産。インテルが同等チップを開発するのはこの2年後。インテルが出荷を開始したときには富士通はかなりのコスト低減を実現していた。
1979年春:マイクロソフトが8086用のベーシックを完成
1979年9月:NECがZ80にマイクロソフト・ベーシックを乗せたPC8001を発売
1981年2月:iAPX432を発売
これはかつて8800と呼ばれていたチップだった。8086や8088を生み出す原因となったこのチップは、構想があまりに大きすぎたため、処理速度が極端に遅かった。結局はまったく売れず、知名度も非常に低い。ちなみにiAPXは intel Advanced Processor Architecture の意だそうである。
1981年8月31日:IBM-PC 発表
IBMは「とにかく早くIBMロゴの付いたパソコンを出す」という考えのもとあちこちから部品を集めて回り8088を搭載したIBM PCを完成、2ヶ月後に発売すると発表。2年間で50万台も売り上げた。後に後継機IBM PC/XTも発売される。
1982年:NECがインテルの8086を搭載したPC9801を発表
1982年2月:インテル、AMDと8088のセカンドソース契約
IBMがIBM PCに搭載するチップにセカンドソースを要求したため、インテルはAMDと契約せざるを得なかった。結果、IBM PCに供給されるチップはインテル8割、AMD2割となった
1982年3月:インテル、80286を発売
この80286がIBM PC/ATに採用され爆発的に売れたため、インテルは生産が追いつかず、富士通、AMD、ジーメンスという日米欧の有力半導体メーカーとセカンドソース契約(生産ライセンス契約)を結ぶ。
ちなみにインテルはこの時期他のチップも出荷を始めている。マイクロコントローラー80186、LAN用のコプロセッサ82586、テレコミュニケーション用の2914、いずれもマイナーではあるが、インテルでCPU以外の生産も始まった。
1982年12月:IBMがインテルに出資
80286を自社のみで供給するための設備投資をIBMの出資によりまかなう。IBMはインテル株を12%取得。最高17%まで達した後、87年末までに全インテル株を売却。
1983年:本格的な半導体市場の不況が始まる
ダンピング競争が始まり、コスト割れで販売が開始された。日本企業はそれでも米国企業より低い値を付けた。ウォールストリートジャーナルが後に掲載した日立の代理店へのメモには、米国企業の価格より常に10%引け、という内容が書いてあった。
1985年6月:インテルがNECを提訴
NECの8088と8086の上位互換チップV20とV30が著作権法違反であるとして提訴した。89年の判決は(1)インテルのマイクロコードは著作権法により守られるべきだが(2)NECは著作権を侵害していない、となった。この裁判でNECが負けることが予測され、NECはV25、V35、V40、V50と新製品を出したにもかかわらずほとんど売れなかった。
1985年:6工場を閉鎖、30%の従業員をレイオフ
EPROMが84年〜85年の一年間に10分の1以下の価格に値下がりし、DRAMもダンピング状態となり、86年には2億ドルの赤字を計上、市場より撤退する。84年に2万5千人いた従業員は85年に1万8千人となった。
1985年9月:日米半導体協定が結ばれる
この協定により日本のメーカーは米国でのダンピングをやめ、5年間で日本市場での海外製品のシェアを20%にすることとなった。
1985年10月:32ビットMPU、80386を発表
サンフランシスコ、ロンドン、パリ、ミュンヘン、東京で同時に発表。80386よりインテルはセカンドソース契約をせず全てを自社で生産するようになった。
1986年9月:コンパックが80386を採用
なかなか80386を使おうとしないIBMに先立ち、コンパックがデスクプロ386で世界初の80386パソコンを発表
1986年
このころのインテルには製造に大きな変化が起こっている。製造コスト、平均製造時間、エラー率、歩留まりなどにおいて、数十%の改善が見られた。表に出る変化ではないので歴史年表では見られないが、大きな変化であった。これには不況時にも絶やさなかった設備投資の効果が現れている。
1987年4月 アンディ・グローヴがCEOに
1987年:386ライセンスに関しAMDとの12年に及ぶ訴訟が始まる。
インテルは1982年の契約に基づく仲裁人を立てることを拒否。AMDがこれを提訴し、仲裁人が立つが、この仲裁に3年がかかる。仲裁の結果はAMDが無償で386のライセンスを得られると言うものだった。当然インテルはこの仲裁に納得せず訴訟へ。この訴訟の結果は1994年に出て、AMDの勝利であったが、インテルの目的は時間稼ぎであった。
1988年:AMDを286の特許権侵害で告訴
76年協定で「マイクロコードの使用権を与える」という表記について解釈の違いがあり、AMDを特許権侵害で訴える。いったんはインテルの勝訴となったが、インテルの提出した証拠書類に改ざんがあった事が発覚、再審の結果AMDが勝訴。これによりAMDはインテルのコードを使用した486互換チップ(差し止められていた)も発売できた。
1988年7月:セマテック設立
アメリカでは初めての官民共同研究開発会社。米半導体企業が、開発能力を向上する、日本企業から製造技術を学ぶ、という2つの目的で設立。ロバート・ノイスがCEOに。
1989年:EPROMから撤退
EPROMのかわりに、フラッシュメモリと呼ばれる紫外線ではなく電気的に内容消去の行えるメモリへ。EPROMは韓国の三星(サムソン)からOEM供給してもらうこととなった。この時、三星がインテルの半分以下のコストでEPROMを生産していることがわかった。
1989年4月:32ビットプロセッサ、486発売
1989年10月:「レッドX」キャンペーン開始
インテルは80286に赤い×印を付し、386SXを大々的に売り出すという、世代交代キャンペーンを行った。これにはいまいち市場に浸透していかない386と、なかなか386を採用しようとしないパソコンメーカーへの圧力だった。ユーザーに直接386を売り込むことにより、386の載っているパソコンに目を向けさせたのである。
1990年3月:ネクスジェンが386互換チップを発表
ネクスジェンはアスキー、コンパック、オリベッティなどが出資。
1990年11月:AMDが386互換チップAm386を発表
1991年3月:AMDが386の商標で勝訴
インテルはAm386が386というインテルの商標を侵していると主張したが、事実上一般名詞となっているとして、AMDの主張が認められた。この後インテルは先頭にiを付し、商標を明示することとしたが、根本的な解決にはなっていなかった。
1991年4月:AMDがAm386DX/DXLを発表
インテル純正よりクロックが20%高かったうえ、486SXより低価格で販売された。
1991年5月:「インテルインサイド」キャンペーン開始
初年度から2000万ドル以上の費用をかけてキャンペーンが開始された。製品の広告にインテルの望むような形で「intel inside」のロゴを含む場合、インテルからマーケティング開発資金と称してチップ代金の3%を受け取ることができた。商品の別部分に付す場合にも別契約があった。92年のインテルの売り上げは63%も増大した。
1991年末:ネクスジェンがF86の量産を開始
F86は486DXの倍の処理速度を持つとされていた。
1992年:倍速技術を使用した486DX2とODP発売
クロックダブラーと呼ばれるクロック周波数倍化技術により、チップを置き換えるだけで最大70%の速度向上ができるチップを発売。これを使用すればPCメーカーは回路設計に手を加えずマシンを高速化することができる。ODPはこのチップをあらかじめ用意されたソケットに挿すことにより、最新のチップに簡単にアップグレードできるというものだった。
1992年3月:VMテクノロジーがVM386X+を開発
1992年3月:サイリックスが486と命令セット互換MPUを発売
1992年5月:テキサスインストゥルメンツが互換チップ市場へ参入を表明
1992年5月:486の値段を約60%値下げ
1992年12月:AMD敗訴
AMDはこれまで使用してきたインテルのマイクロコードをコピーして製品に使用することができなくなった。
1993年3月:ペンティアムを発売
この時発売されたペンティアムは5ボルト仕様で、486DX4に比べた性能向上はわずかであった。ペンティアムからインテルはx86という表記を止めた。互換製品対策である。i486までは数字によって似通った商品名とできたが、言葉にしてしまえばできないということである。この初期のペンティアムにはバグが含まれていた。が、インテルはこれを公表せず、外部からの告発により表面化することとなった。
またインテルはこの年からマザーボードの販売も行っている。
1994年3月:サイリックスがペンティアム互換チップを発売
1994年11月:AMDがK5のサンプル出荷開始
1994年11月:CNNがペンティアムのバグを報道
1994年12月:IBMがペンティアム搭載機の出荷を見合わせ
インテルはこれによりチップの無償交換を余儀なくされた。当初は高度な計算を必要とする専門家などに限られた交換を、全てのユーザーに対して行うこととなった。この費用は4億7500万ドルが見込まれた。インテルは同時にチップのバグリストを公表することとした。
1994年:ネクスジェンがペンティアム互換のNx586を発売
これはRISCチップであり、インテルのマイクロコードをまったくコピーしていない、つまりインテルの著作権を確実に侵害していないチップであった。しかし、ピン互換ではなかったため売れなかった。
1995年:プロセスルールを0.35μmへ
これによりコスト削減、処理速度の向上、信頼性の向上が図られた。
1995年1月:AMDとクロスライセンス契約を決定
それまでの訴訟を両者とも全て取り下げ、クロスライセンスを新たに交わすこととなった。実際に交わされたのは同年末。しかしこの協定は、P6以降のソケットの使用禁止、P5以降のマイクロコードの使用禁止と厳しい内容だった。
1995年10月:AMDがネクスジェンを買収
これによりAMDの次期製品(K6)はNx686となった。
1995年11月:ペンティアム・プロを出荷開始
1995年11月:サイリックスが5x86を量産、6x86を出荷
1997年1月:MMXペンティアムを出荷
MMXとは MaltiMedia Extention の略であると言われ、CPUの通常命令だけではなく映像や音声処理用の命令を搭載しているということである。また、これはNSP(Native Signal Processing)の一環でもある。
1997年2月:サイリックスがメディアGXを出荷
1997年3月:再びサイリックスとAMDをMMX関連で提訴
MMXの商標を無断で使用しインテルの宣伝に便乗していると提訴。サイリックスはすぐに和解し、AMDは法廷で争った。が、すぐに和解。両者ともインテルの主張を認める形となったが、使用料は無償とされた。
1997年4月:AMDがK6を出荷
1997年5月:ペンティアムUを出荷
ペンティアムUは、ペンティアムプロからインターナルキャッシュを除いたかわりに、それまではセカンドキャッシュと呼ばれたものをパッケージ内に取り込み、さらにMMX命令を搭載したチップである。ペンティアムプロはそれまでのx86アーキテクチャから少し離れたチップであったが、ペンティアムUではそこも見直されたので、これまでのソフトも高速に走った。 アンディ・グローヴが会長兼CEOに、クレイグ・バレットが社長に。また、ストックオプションを全従業員に拡大。Face Intelが結成されインテルの厳しい雇用を公表している
1997年5月:DECがインテルを提訴
Alphaチップに関しインテルが特許を侵害したというのである。この2週間後にインテルは逆提訴を行い、にらみ合いとなったが、結局和解した。
1997年6月:サイリックスが6x86MXを発表
サイリックスはこの1月後、ナショナル・セミコンダクターに合併されることが決まった。
1997年11月:ペンティアムとMMXペンティアムにバグ発見
特定の命令を実行するとプロセッサが停止するというバグ。対応ソフトなどがすぐに配布され、前回のような混乱はなかった。
今後のインテル
インテルは開発コードネームMercedを開発中であり、これには従来のx86の命令セットとは別のものも搭載される予定である。いよいよx86ベースでの高速化に限界が見えてきたと言うことだろう。インテルのこれからは、この新命令セットへの移行をいかにスムーズに行えるかということにかかるだろう。特に、マイクロソフトに対して。
参考文献
ティム・ジャクソン著、渡辺了介, 弓削徹共訳『インサイドインテル』翔泳社、1997年、上下2巻本
小林紀興著、斉藤忠夫監修『ウィンテル神話の嘘 --- インテル・マイクロソフト 世界支配の陰謀と死角』光文社(カッパ・ブックス)、1997年、204p
他多数
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